今日、俺は妹の秋葉と一緒に外出する事になっていた。秋葉がこの日を楽しみにしていた様子は琥珀さんから聞いていたから、何とかアルクェイドやシエル先輩に邪魔はしないように説得した。 何の障害もないと思ってた。少なくとも昨日までは。 「あの、もう目覚めの時間です。そろそろ起きてください、志貴さま」 そんな温かい声が聞こえてきたので、俺は意識を覚醒させていく。 いつものようにベッドの横に立っていた翡翠は、俺が起きたのを確認すると恭しく頭を下げる。 「ん……おはよう翡翠。秋葉はもう起きてるのか?」 「はい、秋葉さまは既に身支度を整えられて、食後の紅茶を飲んでおられます。急いだ方がよろしいかと」 「急いだ方が……か。たしかにあいつを待たせると後が怖そうだな」 俺は笑ってごまかす事にしたけれど、翡翠はそんな態度にいぶかしげに眉をひそめるだけだった。 時刻を見れば俺の起床時間はいつもよりも早い方だ。今から朝食を取って身支度を整えて出発、それでようやくデパートが開くぐらいに早い。俺が遅いんじゃなくて、休日なのに秋葉が早すぎるんだと思う。 「分かった。秋葉には着替えたらすぐ行くって伝えといてくれ」 「かしこまりました。ではそのように。……ところで志貴さま、顔色が優れないようですがどうかなさりましたか? 汗もいっぱいおかきになられているようですが……」 翡翠は慇懃に頭を下げた後、淡々とした表情を崩して心配そうに俺を見つめる。 確かに俺は汗をいっぱいかいている。それも自覚できるほどにパジャマが濡れているし、ベッドのシーツは湿っている。 「いや、どうって事ないよ。覚えてないけど悪夢でも見たのかもな。琥珀さん達に知られたら何か言われそうだから、この事は内緒にしといてくれないか」 「ですが志貴さま……」 「ね、頼むよ翡翠」 「……分かりました。それでは食堂でお待ちしております」 若干渋ったものの、翡翠は一礼をして部屋から出て行った。 「ふう……」 部屋のドアが閉まったのを見計らい、俺はベッドに寝転がって額に手を当ててみる。まるでストーブに手を近づけてるみたいに熱い。しかも少し触れただけなのに、手を洗った後みたいに手が濡れてしまった。 「……まいったな。今日に限ってこんなザマだなんて」 天気はこれでもかと言うぐらいの快晴、雲が少しあるところに現実感がある。風は穏やかに流れていて、気温もそれほど暑くも寒くもない。まさに絶好の外出日和だろう。 それなのに、俺はそんな日に限って風邪をひいてしまった。
貴方が風邪をひいた時
「それで志貴さん、デートコースとかは考えてらっしゃるんですか?」 朝食中、琥珀さんがいきなりそんな事を言い出したために、危うく味噌汁をふきだしそうになった。何とかそれをこらえて飲み込むけれど、今度は咳き込んでしまう。 「ちょっと琥珀さん。いきなり何を言い出すんですか」 「いえいえ、志貴さんがどのようなコースを選ぶのか、実に興味はありますけれどねー」 口元を割烹着でおさえながら鈴を転がしたように笑う琥珀さん。 「何時になにをしたのかより、一緒にいる事の方が大切だと思ったので、デートコースは不定で行き当たりばったりにします。残念でしたね」 「えっ? 全くお決めになられなかったんですか?」 「いや、さすがにある程度はメモってますよ。いくらなんでもそこまで無計画じゃないですよ。一応今やってる映画のタイトルとか、今話題の店とかを他の人から聞いておいたんですから」 「へえ、どんなのをチェックなされたんですか? 参考までに少しばかり……」 「駄目です。これは秘密兵器なんですから」 俺は手に持っていた紙を覗こうとする琥珀さんをどうにかかわしながら、部屋を見渡した。いるのは琥珀さんだけで翡翠も秋葉も見当たらない。翡翠は仕事があるからしょうがないけど、いつもいるはずの秋葉が見えないのは随分と違和感がある。 「そう言えば秋葉が見当たらないけど、どこ行ったんだ?」 「お部屋で今日の準備をなさっていますから、志貴さんの準備が整いましたらお呼びしますよ。それまで秋葉さまがどんな服をお選びになるのか、妄想を膨らませておいてくださいね」 「せめて想像って言ってください」 秋葉の私服姿か……。ファッションにはとんと疎い俺じゃあ想像も貧困すぎて、どんな姿で現れるのか全く想像できない。数分後に期待しよう。 そんなふうに思いながら朝食を済ませ、俺は立ち上がろうとして――よろけて椅子につかまる。その動作を見て笑みを浮かべていた琥珀さんの表情が変わってしまった。 「志貴さん、どうかなさったんですか?」 「いや……膝が抜けちゃっただけじゃないかな。大丈夫だ」 ぼやっとする頭に活を入れて、俺は何事もなかったように立ち上がった。 危ない危ない。秋葉が一体どれだけこの日を待ちわびていたかは、いくら鈍感で朴念仁だと言われ続ける俺でも一目瞭然なほどだった。それを俺の都合だけで取りやめたら、秋葉がどう思ってしまうだろうか。ちょっと分からない。 でも、正直体がものすごくだるいし発汗も酷い。吐き気や頭痛がないだけましって所だろうか。何とか気取られないようにしないと。明日はどうでもいいから、今日だけはどうにか過ごしたいものだ。 そんな平気を振舞う俺だったけれど、琥珀さんはこっちに歩み寄ってきて、俺と自分の額に手を当てる。そして、表情から笑みが消えた。 「志貴さん、今日のデートは取り止めてくださいまし。秋葉さまからはわたしが申しておきますから、絶対に安静にしてくださいね」 「なに言ってるんだよ琥珀さん。俺はこの通り元気……」 「……では体温を測らせてください。文句はその後で」 何を、と言おうとした所に口に突っ込まれたのは、水銀を使った旧型の体温計だった。俺は琥珀さんの顔を、琥珀さんは俺が加える体温計をじっと見つめる。 数秒にも数時間にも感じられた、数分間もの短い時間。琥珀さんは体温計を覗くと途端に青ざめた。 「四十度……! 何考えてるんですか志貴さん! 外出どころか屋敷内の出歩きも控えてください!」 「琥珀さん!」 俺は腕を引っ張ろうとする琥珀さんの肩を掴んだ。風邪をひいてもまだまだ俺の方が力が強いらしく、琥珀さんの体の方がよろける。 「頼む、今日一日だけでいいからごまかしたいんだ。協力してくれないか。琥珀さんの協力もあれば本当に心強い」 「この体温ではごまかせる範囲を超えてますよ。絶対安静が不可欠です」 「秋葉は今日という日をとても楽しみにしてたじゃないか。俺はいつも秋葉を怒らせてばかりだったから、延期するわけにはいかない。頼みます琥珀さん、この通りです」 俺は手を合わせて頭を思いっきり下げた。 それだけの時間が流れたのか、しばらくの間琥珀さんは腕を組んでうなる。そして深い溜息を漏らすと、決心を固めたようにうなづいてくれた。 「分かりました。ちょっとお待ちいただければ薬を調合致します。ですが秋葉さまにばれた時点でデートは終了、それはお分かりですね?」 ああ、さすがに秋葉にばれた時点で終わりにするしかないだろう。ばれた後まで続行させてもらえるとは俺も思ってないし、秋葉をそれ以上心配させるわけにもいかない。それにもしばれたら何と言うか。うーん……あまり想像したくない。 「ありがとう琥珀さん」 「いえいえ、ですがとっても苦いのになると思いますよー♪」 それは仕方がない。こんな大切な日に風邪をひいた自分への罰って事にしておこう。 でも、心なしか琥珀さんの笑顔は引きつっていた。本当だったら俺を今すぐに寝かせたいと思ってくれているんだろう。その心を踏みにじるようで本当に悪いけれど、俺は秋葉を心配させたくないんだ。 でも、琥珀さんの協力を得られたのはよかった。これなら今日一日ぐらい何とか過ごせそうだ。 「それで兄さん、今日はどちらへ?」 「……」 「兄さん?」 「そ、そうだな……まずは映画館に行こうかって思ってる」 秋葉を一目見て、俺は思わずひきこまれてしまった。 ノースリーブのトップスに肘まで覆った長い白手袋、ロングスカートから見える足は編み上げのブーツを履いている。そしてワンポイントのようにヘアバンドの代わりにリボンになっていた。更に、うっすらだけど化粧しているのも分かる。 「いいですか志貴さん、女性はちょっとの変化も見逃さない男性にぐっと惹かれるもんなんです。よく観察して、その部分をほめるんです。ですがくれぐれも地雷を踏まないようにしてくださいね」 とは昨日の琥珀さんの言葉。それをふまえて俺は……、 「その……秋葉、普段とあまり違わないのに随分と印象が違ってて驚いたな」 と言ってみた。もちろん率直な感想で心から思った事を言ったつもりだけど、どうも漠然としすぎる気もしないでもない。 「そ、そうですか。どこら辺がですか?」 俺の考えは杞憂だったのか、秋葉はその言葉を受けて頬を紅く染めた。この反応はちょっと意外だ。 「そうだな……真っ先に顔を見るから、やっぱりリボンが一番気になるかな」 「あ……実はこれ、琥珀のアイデアなんですよ。私はカチューシャにしようと思っていたのですが、服に合わせるならリボンの方がいいのでは、と言われてしまいまして」 秋葉はそっとリボンに白くて繊細な手を添える。その何気ないしぐさに思わず魅入られる。秋葉はそんな俺を見て怪訝そうに首をかしげた。 「兄さん?」 「あ、いや。ごめん、思わず見とれてた……。まいったな、もしかしたら一日中こんなザマかもしれないぞ」 「それは困ります。せっかくアルクェイドさんやシエル先輩の邪魔がない、貴重な一日なんですから。今日は兄さんが私をエスコートしてくださいね」 秋葉は微笑を浮かべて髪をかきあげる。改めてエスコートと言われるとものすごく照れる。これはへまなんかしてられないな。 俺はぼやける自分の頭に活を入れるために思いっきり頬をひっぱたいた。 「よしっ、じゃあ行くか」 「ええ」 最低でも秋葉の目の前でぶっ倒れるざまにはなりたくないし、出来る限りで秋葉には俺の事をばらしたくはない。頼むぞ俺、保ってくれよ。 だ・ま・さ・れ・た。有彦のやつ、会ったら真っ先にボコる確定の方針で。 映画館に行くきっかけは有彦から貰った割引券だった。普通に出回ってる奴じゃなくて関係者のコネで手に入れた代物らしく、副題しか書いてない。その副題からするとSFだと思ったんだけど、がまさかアニメの魔法少女ものだったなんて誰が想像できる。 一応パンフは買っておいたからどんな内容かは分かったけど、秋葉は間違いなく退屈してるんじゃないか……と思って隣を覗き見たら、意外なんだけど瞬きせずに画面に見入っていた。なんだか今にも前に乗り出しそうだったんだけど。 「面白かったか?」 正午あたりにようやく終わって、映画館から出た後で感想を聞いてみる事にした。実を言うと、秋葉のことだから「こんな低俗な物を見るだなんて。今後は琥珀の部屋に行く事も禁止します」なんて言うんじゃないかって、内心ちょっと不安だったり。 「え? え、ええ、そうですね……まあまあと言ったところです」 秋葉はお茶を濁すようにして視線をそらす。その評価は意外って言えば意外だけど、興味がわいたなら後で琥珀さんに録画してあるか聞いてみるかな。 「時刻もちょうど昼時だし、どこかお店に入って食事でも取ろうか」 「必要ありません。兄さんが持っているそれは何のためにあると思っているのですか?」 む、そう言えば俺は屋敷から出てからずっとバスケットを持たされていたんだった。ハンカチとちり紙でも入ってるかとも思ったけど、秋葉は秋葉で別のバッグを持っているし疑問だったんだ。とすると、これってもしかして……、 「その通りです。簡易的にサンドウィッチではありますが、お昼ご飯を用意しておきました。公園がありますから、そこで食事にしましょう」 「もしかして秋葉が作ってくれたのか?」 「……! 琥珀から聞いたんですか?」 え、嘘。本当にそうだったのか。冗談まじりで言ったつもりだったのに。これはありがたくいただかないとな。 公園に辿り着いた後は、バスケットの中にあったサンドウィッチをベンチで食べる事にする。秋葉が作ってくれた事もあって、どんな味がするのかと思ったんだけれども……味がしない。いや、なんだかするけれど味が薄いんだ。エッグはともかく、野菜とマヨネーズのやつがそんな味なのはどう考えてもおかしい。 そう思っていちごジャムっぽいサンドを口に入れる。……甘さ控えめ、ダイエットに最適。温かいお茶もお湯にしか感じない。どうかしたのか? 「あの……兄さん、お味はいかがでしょうか?」 「そうだな……十分に俺好みだよ。購買のサンドウィッチよりもおいしいし、琥珀さんは作ってくれないしね」 それに翡翠のは本当に悪いけれどある意味で完成されてしまってるしなぁ。うーん。 「本当なら琥珀みたいにお弁当にしようと思ったのですが……実を言うと玉子焼きがうまくいかずに、スクランブルエッグになってしまいまして、それで――」 「時間が足りなくなってサンドウィッチになったって?」 「はい……」 うつむく秋葉はどこか申し訳なさそうだった。口はきゅっと結ばれ、手は今にもスカートを握り締めそう。 「おいしいんだからいいじゃないか。それに昼は軽めの方が夜ご飯がおいしく感じる時もあるんだぞ」 「ですが……私にはこのサンドウィッチはいささか味が濃いです。野菜はマヨネーズが多すぎですし、玉子は砂糖を入れすぎました。慌ててしまったのでこの体たらくです」 味が濃いだって? 俺は薄く感じたのに? そう言えば風邪をひいた時って、味覚が変わるんだったっけ。よりおいしく感じるものもあれば、おいしかったものが不味くなったり。こう極端に味が薄くなっているのは、もしかして俺の舌が馬鹿になってるからか? 「兄さん、私の家庭科の成績はいつも五でしたから、この程度が実力だなんて思わないでくださいね。琥珀顔負けの料理だって作れるんですから」 「そりゃ楽しみにしてるよ。その時はぜひ琥珀さんや翡翠たちと一緒に食べたいな」 「ふふ、琥珀には吠え面かかせてあげますよ」 秋葉は不敵な笑みを浮かべてガッツポーズするけど、そんな自信満々に言って大丈夫なのか? あの琥珀さんを超えるとなると生半可なスキルだと返り討ちだぞ。 「ごちそうさまでした」 「御粗末さまでした」 まあいいか。その時はその時に考えよう。俺たちは手を合わせて立ち上がって、 「あ……れ?」 ふらついた所をベンチに触れていた手で支える事で倒れるのを防ぐ。 「兄さん?」 「あ……いや、なんでもない。ちょっと足がしびれちゃって……」 「……そうですか」 俺は笑ってごまかすけれど、明らかに秋葉は不思議そうな表情をしていた。 午後は街の中を適当に歩き回る事にした。こうやってゆっくりと歩いて時間を楽しむのもいいかと思ったから、コースは決めないでおいたんだ。決めたらそれに従わなくちゃ、とカツカツになるだけだろうから。 だからって……だからってさあ。 「こうやって女性専用っぽい店に俺を連れ込むのはどうよって思うんだけどさ」 「何か言いましたか?」 「いや、別に」 あー、周りからの視線が痛い。 そう、さっきから秋葉は洋服店、化粧品店、靴店など、俺とは間違いなく縁のない所ばかり連れて行く。一見すれば俺と秋葉はカップルにも見えなくもないけれど、それでも俺に刺さる視線は、部外者の存在を全く許容していない感じだった。正直胃が痛い。 「秋葉、これなんかどうだ?」 「兄さん、もう少しおとなしいのは選べないんですか? これでは子供っぽいです」 いや、そう言われても俺こんな所来るの初めてだし。 で、今いるのは洋服店だった。どちらかと言えば女性向けで、しかも俺の財布事情からだと手が届きそうにないほどマルがついてる。これを見ていると嫌と言うほど現実を見せ付けられる気がする。 あー、秋葉のやつバイトぐらい許してくれないかな……。 「じゃあ……これとかは?」 「分かりました。試着してみますのでそこで待っていてくださいね」 秋葉が試着室に行ったのを見計らって、額を押さえて柱に寄りかかる。 「ふう……」 少しでも目を瞑ってしまえばあっという間に闇に飲み込まれそうなほどにだるい。いつも起こす貧血とはまた違った意味で頭がくらくらする。 まずいな……こんな所秋葉には見せられない。と言うより察しのいい秋葉の事だから既に気づかれてるかもしれない。 「兄さん、こんな感じですけれど、どうですか?」 「…………え? あ、ああ。似合ってるとは思うけど、ちょっと派手な気がする。これならさっきの方がよかったかな」 「……そうですか。兄さんがそうおっしゃるのでしたら」 秋葉は試着室のカーテンを閉める。 しまった……反応が遅れた。秋葉のやつ、複雑な顔してたけど、もしかして気づかれたか? 「兄さん。今日はそんなに退屈でしたか?」 「え?」 時刻は五時を回って、俺たちは帰路についていた。手には店めぐりでの収穫を携えて。それまで学校とか琥珀さん達の話題で盛り上がっていた所、秋葉がそんなふうに言ってきたのはもう少しで屋敷な距離だった。 秋葉は睨むようにしてこっちの瞳を覗いてくる。 「いえ、私が眼を離すとすぐに溜息をついて顔を押さえていたじゃありませんか。それほど退屈なんでしたら、わざわざ私に付き合って下さらなくても結構です」 「……っ!」 くそっ、やっぱり感づかれたか。そりゃあれだけ態度に出てたら悟られるよな……。 「そ、そんな事ないぞ秋葉。ほら、なんて言うか……わりと女の子が多い店ばっかだったじゃないか。それで俺……気後れしちゃってさ」 「そんな言葉をおっしゃるくらいでしたら、何も聞きたくはありません。アルクェイドさんでもシエル先輩でも、好きな人と行けばいいじゃないですか」 「あ、秋葉!」 秋葉はまるで俺なんかいないかのように早足で歩みだす。何とか誤解を解こうと思っても、ぼぅっとする頭だと回転もおぼつかない。 「くそっ!」 何とか意識を覚醒させるよう頬をつねりながら走り出そうとすると、ぽつぽつと雨が降ってきた。帰路についた時にはまだ雨雲なんてなかったから、本当に急に降ってきたってやつだ。しかも、雨足がどんどんと増していく。 俺は上着を脱いで、秋葉に頭から被せる。 「兄さん……!?」 「家まで後もう少しだ。このまま走った方が早い」 近くにコンビニはない。雨宿りして翡翠に傘を持ってこさせる事はできそうにない。今は誤解だのなんだの言ってられない。 「ここは急ごう。風邪ひく前に早く」 「え、ええ」 駆け出す俺たち。今にも倒れそうなほど頭はくらくらするし、めまいもする。それでも足取りは思ったよりもしっかりしてくれて、秋葉が雨に濡れないようにかばいながら走る事ができた。 屋敷に帰った時には俺も秋葉もシャワーを浴びたようにずぶ濡れになっていた。門の前で待ってくれていた翡翠は顔を青くする。 「秋葉さま、志貴さま……!」 「翡翠、悪いが屋敷まで急ごう。この状態じゃあ今さら傘を差したって意味がない」 翡翠も黙ってうなづいてくれて、俺たちは屋敷へと駆け込んだのだった。 ロビーで俺たちを待ってくれていた琥珀さんは俺たちにタオルを手渡して、笑みを浮かべる。 「お風呂とお着替え、それからお食事の準備は整っていますから、冷え切った体を温めてください。それから――」 「琥珀、もちろん――」 「はい、もちろんそのように――」 ……まずい。今の疾走で俺の精神もまいったようだ。かろうじて秋葉と琥珀さんが何かを話しているのが分かるだけで、聞こえる声は小さいし視界はいつか見た絵画みたいに歪んでる。 「志貴さん、閉鎖していた屋外浴場に熱めのお湯をためておきましたから、まずは温まってください。このままですと風邪をこじらせます。お食事は後で部屋にお運びしときますから」 「ありがとう、琥珀さん」 必死に普通を振舞って、重い足を浴場の方に運んでいく。後はもう寝るだけだ。そうすれば明日風邪が発覚しても、今日の一件が理由になってくれるはずだ。秋葉を心配させる事には変わりないけれど、それでも……。 「兄さん、ちょっと……」 と、秋葉が俺の手を掴んで止める。一瞬バランスを失って倒れそうになったけれども何とかセーフ。 「どうした?」 「……! 兄さん、手……!」 秋葉は俺の手を掴んだままで驚愕する。 手? そう言えば秋葉の手は何だか異様なほどに冷たい。まるで氷をさわっているみたいだ。 「秋葉、雨にうたれて体冷えてるんだろ。手もこんなに冷たいし、早く温まらないと風邪ひくぞ」 「……っ! 琥珀、肩を貸しなさい! それから翡翠、寝室と寝具の準備を!」 「「は、はいっ!」」 秋葉の強い口調での命令に二人はびくっとしながらも、次には行動を開始していた。 ……ちょっと待て、何でいきなりこんな展開になるんだ。俺それらしい事をした覚えはない……、 「兄さん、まさか今日一日中こんな調子でわたしに付き合ってくれたのですか!?」 「え、いや、ちょっと待ってくれ。何を言ってるのか……」 「とぼけたって無駄です。わたしの手が冷たいのではなく、兄さんの手が熱いんですよ……!」 し、しまった。そこまで頭は回らなかった。これじゃあ秋葉になんて言ったら、どんなふうに言い訳すればいいのか分からない。どんな理由にしたって、俺が今日一日秋葉に風邪を黙っていた事に変わりはないし。どれだけ怒られるかな……。 「……何てこった。まさか今になってばれるなんてな……」 「え……ちょっと、兄さん……兄さん!」 「あ、志貴さん……!」 そんなふうに気が緩んだからだろうか。俺の意識は次の瞬間、深い底に沈んでいった。 思い出すのは幼い頃の思い出。今ではよく思い出せないけれど、確か秋葉が風邪をひいた時だった。親父の指示で面会謝絶、俺たちが秋葉をみまう事はできなかった。俺たちは何とかして大人たちの目を盗んで秋葉の部屋に行こうとしたっけ。 ようやく秋葉の部屋に忍び込んだのは、もう夕方になってからだった。その時秋葉は熱にうなされてて、思わずゆすって起こしちゃったぐらいだ。花とか折り紙とか、みんなで選んだおみまいの物を渡して、色々と話して盛り上がったっけ。 まあ、結局それがばれて酷く怒られたけど、後悔は俺も含めて全員しなかった。 「ん……」 目が覚める。有馬の家のときみたいに目覚まし時計でもないし、遠野の家に戻ってきてからの翡翠の呼びかけでもない。ただ自然に目が覚めた。 「兄さん!」 まずは眼鏡をかけて、珍しかったので目覚まし時計で時間を確認しようとした時、不意に聞こえたのは激しい感情のこもった声だった。 「よかった……おはようございます、兄さん」 見ると、いつも翡翠が立っている位置に椅子を置いて秋葉が端然と座っていた。目の下には秋葉らしからずくまができているし、髪は櫛を入れてないのか少しぼさっとしている。これってもしかして……、 「あ……きは? お……おはよう。どうしたんだよ、こんな朝早くから……って、もしかして一晩中――」 「兄さん、失礼します」 「え?」 俺の部屋に乾いた音が響く。それが俺が平手打ちを受けた事に気づくのには数秒必要だった。 「あ、秋葉?」 鈍い痛みと共に俺が呆然と頬に手をやっていると、秋葉は涙を流しながら俺を睨む。怒りと悲しみが混じった表情は今まで俺が見た事のないものだった。 「兄さん、貴方はどれほどの事をやったのか分かっているのですか! 自分自身を蔑ろにしてわたしが喜ぶと思ったんですか! わたし達が……わたしがどんな思いをしたか分かってるんですか……!?」 「そ……それは……」 厳然としながらも感情をあらわにする秋葉に、俺は何も言い返せない。言い返す事はできないし、言い返す資格もない。 「兄さん……兄さんが倒れてからもう一日半も意識を失ったまま寝込んでいたんですよ。その間ずっとうなされていたり、息を荒くしたり……このまま兄さんが起きなかったらどうしようかと何度思った事か……」 「え……? 一日半も?」 時計を確認する。時刻は十一時で、もうとっくに学校が始まっている時間だった。 「秋葉、おまえ学校はどうしたんだよ、もう始まってる時間だろ。まさか俺のために学校を休んだんじゃあ……!」 「ええ、学業よりも兄さんの方がずっと大切ですから」 しれっと言い放つ秋葉に俺は絶句する。 優等生な秋葉が俺のために欠席扱いになったのか。俺の行動で結局は翡翠にも琥珀さんにも、そして秋葉にも迷惑がかかったなんて……。 「秋葉、俺が悪かった。正直ばれなければいいなんて甘い考えも持ってたんだ。それに、せっかくの日だったのに俺の都合だけで取りやめにしちゃったら、なんだか悪い気がして……」 「そんな気を遣わないで下さい。もう……お願いですからもうこんな無茶はしないで下さい。兄さんが倒れてしまったらわたし……」 「秋葉……」 秋葉が俺の手をそっと包む。その手はおととい握った時と違って、熱がある俺でも温かく感じられた。 「……ああ、分かったよ」 だから俺は微笑んで、秋葉の手を逆に包み込んだ。 ああ、もう俺はあんな莫迦な事はしない。そうした結果がさっき見せた悲痛なほどの表情なんだったら、絶対にやりはしない。やるなんて思い浮かんだら、その時は俺自身がぶん殴ってやる。 俺はもう二度と秋葉にあんな顔を、想いをさせたくない。 「本当に悪かった。その……許してくれなんて虫のいい事は言わないから、今後の態度に期待してくれ」 「兄さん……」 秋葉は顔を紅潮させて、目を丸くする。俺がそえた手を退こうとするけれど、少しうつむいた後に満開の花が咲いたように笑顔を見せてくれた。 「分かりました。それでは次は楽しみにしますね。期待しています」 そう言ってくれると俺も嬉しい。次は風邪をひくなんてへまはおかさないようにしないとな。 「それでは兄さんも起きた事ですし、琥珀に何か作らせますね。少し待っていてください」 「あ、秋葉」 部屋を出て行く前に俺は秋葉に一言言いたかった。秋葉はいつものように凛々しくこっちに顔を向ける。 「本当にすまない、ありがとうな」 「はい」 秋葉は微笑を浮かべて俺の部屋を出て行った。 俺は再びベッドに寝転がり、外を眺める事にした。おとといの雨が嘘のような快晴。開けた窓からそよぐ風も俺の顔を程よく冷やす。もし出歩くならば、絶好の散歩日和ってやつだろう。 「まあ、まずは風邪を治さないとな」 俺は再び目を閉じて、寝る事にした。次はきっと、秋葉には満面の笑みを見せてほしいと思いつつ――。
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久々の短編、いかがだったでしょうか。 今回は秋葉に焦点を当てた上で、他の不必要なシーンや登場人物をばっさりカットした上でやりくりしてみました。 そのおかげで話がぎゅっと引き締まった気がする反面、ちょっと物足りなくも思ったり。 自分が書きたかったものが書けたかどうかはちょっと微妙です。
秋葉は大別すればツンデレに入るかもしれませんが、自分はいささか疑問に思います。 少し正直になれないだけで、ツンはあまりしていない気がします。 まあ秋葉の魅力はツンやデレにあるわけじゃないと思うのが最大の理由ですが。
次に焦点を当てるのは誰になる事やら、自分でも分かりません。 それでは次の短編でお会いいたしましょう。 2007年7月1日