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帝都カエルスィオン。東アヴァロンが建国されてから今日まで異民族、他国、他種族、更にはモンスターの猛攻でも落とされる事のなかった難攻不落の城塞都市である。東の人類圏でも最大国家の首都にふさわしく、道や施設などの整備が隅々まで行き届けられ、数多くの人々が平穏と繁栄に包まれて暮らしていた。
そんな帝都中央からやや海よりに位置する宮殿。そこは何世紀にも渡って洗練され続けてきた庭や建造物によって芸術の域にまで達していた。それは初めて訪れる、者が口をそろえて神々が集う神殿とまで表現するほどである。
宮殿のほぼ中央に位置する謁見の間も例外ではなく、国中の粋を集めて豪華な飾りたてがされていた。皇帝の座から床の敷物まで全て東アヴァロンの歴史に名を残すほどの芸術家や職人に作らせたものだった。
座に座るのは栄光の中枢である若き女帝、エシストであった。
彼女はお抱えの画家に描かせる絵はありのままの自分にしていたが、さすがに臣下の前ではある程度豪華絢爛な装飾を身につけていた。化粧や香水も付けなければならず内心では不満もたまっていたが、結果的には彼女の存在感をより際立たせていた。
「既に打ち破られ、守護隊は全滅。そうであったか……。報告ご苦労、大義であった。下がってよいぞ」
だが今日ばかりは普段の定評とは対称的に、この世の地獄を垣間見たかのように表情を沈ませていた。報告のために謁見していた騎士は皇帝の様子を心配しながらも言葉に出来るほどの度胸もなく、一礼するとその場をあとにしていった。
エシストは深いため息を漏らすと傍らに起立する女性に視線を移す。女性は彼女と違って騎士の報告を耳に入れても動揺せず、黙したまま前方を見据えていた。
「そなた達も下がるがよい。我はこの者と話をせねばならぬ」
エシストは周りで控えていた親衛隊の者たちに向けておざなりに促した。しかし化粧の上からでも窺える疲労感にそばに控える親衛隊も動揺を隠せていない。
「恐れながら申し上げます」
エシストの発言に対し、すぐさま親衛隊隊長が前に歩み出て恭しく頭を下げる。
「それでは陛下の護衛が誰一人としていなくなってしまい、万が一に対応できなくなりますます。せめて我々だけでも……」
「聞こえなかったか。我は下がれと申したのだ」
エシストは彼を一睨みした。氷より冷たく針より鋭い視線に射竦められ、隊長は思わず言葉を止めてひざまずく。
「ぎょ、御意」
近衛兵は慌ただしく姿を消し、広大な謁見の間に残ったのは女帝エシストと女性のみになった。エシストは本当に誰もいないかを確かめると、全体重をかけるように座にもたれかかる。
「……グウェン。これでいくつめかしら?」
「多分これで四つ目だったと記憶しています、陛下」
エシストは更に表情を曇らせたが、先程とは違って若干嬉しそうに目を輝かす。
「二人きりの時は陛下は止めてほしいって言ったでしょう。昔のようにヴェンウェンと呼んでくれないかしら」
「そうしたいのは山々なんですが、普段から言い馴れておかないと陛下の臣下を前にした時に口を滑らせてしまいそうで怖いんです」
「確かにそれも非常に困るけれど、逆にこういった時間ではとっても寂しいのよ。彼女もいるけれど私にとっては貴女も大事なの。分かって頂戴」
「だからこそ陛下と呼ばせてください。本来なら私がこの場にはふさわしくない人物なのですから」
「それは本当に実力かつその若さで大神官にまで駆け上がった人物の言葉かしら。謙遜を通り越して嫌味よ」
エシストは傍らに置かれたグラスの中の水を一気に飲み干した。そして大きな息を吐くと背筋を正し、先程まで騎士たちに見せていた皇帝の顔つきに戻る。
「……まさか西側諸国のが全て解かれてしまうとはね。これだと恐れていた地獄が現実のものとなってしまうんじゃあないかしら」
「仕方がありません。あれから何世紀も経過してしまい、治める国そのものも変わってしまった箇所までありましたから」
「中には場所さえあやふやになっている所もあるしね」
エシストは顔を押さえながら天井を仰いだ。そこは何も描かれていない閑散としたものだったが、その分自分の考えに浸る事ができた。そのため、彼女は天井が謁見の間では一番好きだった。
グウェンと呼ばれた女性はエシストを輝く眼差しでただじっと見つめ続け、彼女の反応を待つ。グウェンの視線に気付いたエシストは気まずそうに首を左右に振った。
「なぜ今になって相手が動き出したかなんて分からない。そしてなぜ相手が正確な場所まで把握しているのかは正直どうだっていいわ。肝心なのは残った箇所をなんとしても死守する事よ」
エシストの傍らに置かれているのは人類圏各所に丸印が記された地図だった。黒丸と赤丸があり、黒丸二ヶ所と赤丸二ヶ所にはバツ印が加えられていた。残った黒丸は二つ。その内の一つは内海を隔てた東アヴァロン南部に記されている。
その打ち分けに共通点はなく、都市部を中心に記されているものもあれば街道からも遠い何もないような所にも記されていた。
「それには位置の判明しているこの黒丸の箇所を死守するだけでは手ぬるい。なんとしてでも歴史に取り残され失われた赤丸に相当する箇所を相手より先に発見しなければ」
「そのために陛下は東アヴァロンの各所に軍をお送りになられているのでしょう?」
「正確には提案したのも命令したのも私ではないのだけれどもね」
エシストは艶めかしい笑みを浮かべた。グウェンもそれ倣う様にほがらかな笑みを見せる。
「広大な東アヴァロンならもう一ヶ所はあると思ったんだけれど……私の思い違いだったかしら」
「いえ陛下のお考えは恐らくこの国が行える最善のものかと思いますが」
「そう言ってくれると嬉しいわ」
エシストは再び王座にもたれかかって首を上げた。今度仰ぎ見ているのは天井よりももっと遠くで、エシスト自身にもどこに焦点を合わせているのか分からなかった。
「こんな時彼がいてくれればよかったのに……」
「陛下……」
エシストの口からつぶやかれた言葉にはどれほどの意味と心を込めたのか、これもやはりエシスト自身にも分からなかった。だが今すぐ鏡を覗けば自分でも分かるほど悲痛な顔をしているのだろうと自覚は出来た。
グウェンも彼女に同調する姿勢を見せたものの、すぐにそれを振り払うように首を大きく振るう。
「陛下。新参者のわたしは貴女の仰る彼を知らないのでこう言うのは憚れますが、希望を持つのではなく今出来る最善を尽くす事こそ一番だと思うんです」
「……そうね。その通りだわ」
哀愁漂う乾いた笑みを浮かべるエシスト。次には唇を硬く結び、自分の頬を思いっきり叩いた。
「いざとなったら期待してるわよ、グウェン」
「はい、わたしの陛下」
まじめな面持ちで見詰め合うエシストとグウェンだったが、突然エシストは突然吹き出して笑い始めた。エシストの様子にグウェンも貰い笑いをし、二人のにぎやかな笑いが謁見の間をこだまする。
地図に記された東アヴァロンの丸印は一ヶ所。ただしいつでも消せるような黒鉛で書かれた丸印は数十ヶ所も点在していた。ほとんどが『済』と書かれ、残った数ヶ所についても『派遣中』と書かれている。
その内の一つに東アヴァロン東部の都市、アルベルスがあった。
千年以上もの歴史を誇る東アヴァロンは帝都を除いた全ての領土を失った事がある。数年で一気に失った領土は何世紀もかけて取り戻さねばならなかったが、二十年前にようやく再統一に成功して現在に至っている。
地方都市アルベルスも例外ではなく百年近くも他国の首都であった。その後に行われた再統一戦争の弊害でアルベルスを横切っていた物流街道は海路に移ってしまい、都市とは名ばかりの街にまで衰退してしまっていた。
もはやアルベルスに他国の首都だった名残は少ない。併合から既に数世紀も経過しており、東アヴァロンの色が強くなってきてしまっていた。他国の名残が窺えるのは旧市街地の街並みと外れに広がる神殿の遺跡だけだった。
「目を見張るべき工芸品も名産品もない。あるのは古びた遺跡だけ」
「けれどあの手記に書かれた五ヶ所のうち一つは間違いなくアルベルスを記していた。それはアリスだって確認したんだろう?」
「……肯定」
アリスは水の入ったグラスを指で軽くなでた。グラスについた水滴が指から手の平へと流れて濡らす。トリスもあさっての方向を眺めながらグラスに口をつけると、水を一気に飲み干した。
アリス達三人は荷馬車購入の手続きを済ませるとすぐさま地方都市を出発、とはさすがにいかなかった。単独ではともかく三人が荷馬車を共有して旅を進めるとなればそれなりの準備が必要となってくるからだ。
まず料理や身支度に必要な水は水筒から樽に変更。いつも野生動物の肉や自然に生息している植物や菌類を食せるとも限らないため保存に適した食材も購入した。生活雑貨は三人とも一人旅からの流用で十分と判断された。
ところが嗜好品の話になるとリアンノンは思いがけない行動に出た。
「うむ、これがあってこそわたしだな!」
彼女が確信するようにうなづきながら荷馬車に乗せたのは巨大なゼンマイ仕掛けの柱時計。芸術品のように精を込めた彫刻などは施されていないものの、神秘性すら感じさせるほど歴史のある立派な骨董品には間違いなかった。
場所がかさばると二人は難色を示したが、「わたしの荷馬車なのだからいいであろう」と豪語されれば黙らざるをえなかった。
なお、アリスは三冊ばかり新たな本を、トリスはちょっと趣向を凝らしたティーセットを購入した。リアンノンが遠慮しないなら、と強く主張した結果だった。
そうして準備を整える間に結局夜も更けてしまい、アリスもその日の内に都市から離れる予定を断念、素直に宿を取る事となった。
選んだのは寝室が汚くなく食事が取れる、この二点が整った最低限必要なものが備わっている程度の民宿。
「これで宿泊代を節制する。日々の節制が後に生きてくる」
「俺は堅苦しい形式ばったホテルよりはこっちの方が温かみがあって好きだな」
「構わぬ。ただ水浴みで身体を清められればよい」
理由は三人の間で明確な違いがあったものの、全員一致で決定した。
夕食は外で済ませ、二部屋を取って宿泊する。部屋の雰囲気や寝具、そして浴場は想像よりは清潔で整えられており、水浴みを望んでいたリアンノンも文句は言わなかった。
そして夜が明けた。朝日は東から昇ったばかりで西の空は薄暗く空気も肌寒い。早朝の街はまだ全体が眠りについたように静寂。森や林なら聞こえるだろう川のせせらぎや木々のゆれ、そして鳥の美しい鳴き声は耳に入らなかった。
早朝でも食事が用意されるとの触れ込みだったので、早々に身支度を整え終えたアリスとトリスは食堂に足を運んでいた。さすがに時間も早いためか食堂はまるで二人専用のように空席が目立った。むしろ従業員の方が多いほどだった。
そして今、グラスをつついて朝食が運ばれるのを待っているのだった。
「やっぱりリアンノンが持っていた手記を見ない限り真相は解き明かせないか」
「彼女自身も把握していない節《ふし》が見られるから現状ではそれが最善の手段。問題は彼女が何よりも大切そうにしていた手記を見せてくれるかどうか」
「つまりは現時点では手詰まり。彼女の信用を得ない限り先には進めない、か」
トリスは降参するように両腕を上げて軽くため息を漏らした。アリスもアリスで特に感慨なく早速購入した本を読みふける。
二人の会話はそれで終了し、アリスは読書を黙々と続行してトリスは辺りを観察するように見渡すだけ。次第にアリス達の席を重苦しさが覆ってゆく。
たまらなくなったようにトリスは身を乗り出してアリスに語りかけようとし、
「はい、お待ちどうさま」
運ばれた食事によって見事なまでに出鼻を挫かれた。
メニューはオムレツとサラダにパンが数きれ、器にはコーンスープがなみなみと入れられ、他にも様々な皿が並ぶ。どれからも湯気も出ていて匂いをかぐと食欲をそそる香りが漂う。
「いただきます」
力が抜けているトリスを完全に他所にし、アリスは手を合わせてから頭を下げた。そしてオムレツにナイフとフォークを入れて一口食べてみる。
「……おいしい」
アリスから自然に漏れた言葉は抱いた全ての感情がこもっていた。そしてアリスは表情を輝かせてフォークを進めてゆく。それは小柄な体格からは想像もできない速度だった。
観察するトリスは疑惑に眉をひそめながら食事を窺い見る。
「本当においしいのか? 正直話半分に考えておこうか……って確かにおいしいこれ」
見た目が普通なのもあって半信半疑だったトリスも食事を口に運んだ途端に正直な感想をもらした。
「なんというか、そこいらの定食屋よりも味がしっかりしているし、ちゃんと独自の味を出せていて手抜きじゃないし……駄目だな。語彙の無い俺が説明しようなんて無謀そのものだった」
「けれど要点は押さえている。概ね貴方の感想は正しい」
思わぬ形で満足のいく食事が取れためぐり合わせにアリスは感謝の意を示した。先程料理を運んだ女将にとってはほんのわずかな動作でも十分だったらしく、何度も頷きながら笑みを浮かべて親指を立てた。彼女は踵を返すと機敏な動きで厨房へ引き返していく。
料理はフォークとスプーンの進みが二人の予想以上に早く、すぐに目の前の皿から消えた。トリスは名残惜しみつつ用意されたコーヒーにトリスは砂糖とクリームを次々と入れていく。その量はアリスが呆れ果てるほどだった。
「どうやらリアンノンが起きたようだね」
注がれたところでトリスは食堂に隣接した階段を指差した。トリスの真向かいの席に座っていたアリスは体をひねってそちらを窺う。
リアンノンはアリスとトリスを見つけると力強い歩調で一直線に向かって来る。衣服がドレスのようでありながら身体の線はしっかりと際立ち、とても柔らかくしなやかに動く。
彼女はアリスの目の前に立つと、瞳の奥底を覗き込むように顔を近づけた。もう少し近づければ唇と唇が触れ合う距離だ。
「そなたはアリス。違いはないか?」
「ない」
リアンノンの言葉にアリスは頭の中で疑問を持ったが、彼女はそれに答えようとはせずにトリスにも同じように顔を近づける。
「そしてそなたはトリス。違いはないか?」
「ないよ」
「それはよかった」
リアンノンは何度も頷くと、例の手記を取り出して読みふける。更にペンを取り出すと二人が目を見張るほどの凄まじい勢いで文章を書き連ねていった。
「うむ、間違いはなかった。では今日から印のついた箇所への旅を共にする仲間に感謝しよう」
彼女は満足そうに手記を懐に入れると満面の笑顔でお辞儀をした。アリスはリアンノンの奇妙さに思わずトリスに視線を移したが、彼もまた同様な思いを抱いたようでアリスに視線を移していた。
「彼女は一体何を意図している?」
「俺には見当もつかないな」
二人は実際に言葉を交わさなかったが、視線だけで会話をしたようにお互いの思いを把握した。リアンノンは二人の怪訝な眼差しに気付いていないのか気にしていないのか、目の前に用意された食事に精を出す。
「唐突だがおそらくそなた達には多大なる迷惑をかけると思うので今のうちに謝罪しておきたい。しかしそれがわたしとの旅の定めゆえ、許せ」
リアンノンの発言は本当に唐突だったが、二人とも彼女の言葉をそのままに受け止める。
「貴女が謝罪する必要はない。こちらも基本的に同調は苦手」
「迷惑だなんてとんでもない。こっちも前は仲間の足を引っ張ってばかりだったからね」
抑揚のないアリスと温和なトリス。二人の反応は互いに普段のもの。だが、リアンノンはかぶりを切って否定を示した。
「不慣れなどという問題などではなく、もっと根本に位置するものだ。なにしろわたしには致命的な欠陥があるのでな」
「致命的欠点?」
「欠点ではなく欠陥と呼ぶべきものだ。それはだな……」
「はい、おまちどうさま」
一つうなづいて説明を開始しようとするリアンノンの前に女主人が食後のデザートとしてケーキを運んできた。
「おおっ、ここでは食後のデザートではケーキが振舞われるのか!」
リアンノンはそれが視界に入れたと同時に食堂に響き渡るほどの大きな歓声をあげた。直前からの急激な変化に思わず目を丸くするトリス。
女主人もリアンノンの反応が意外だったようでしばらく動かなかったが、やがてかんからと笑い出した。
「まあね。元々は旦那が趣味の一環で始めたらしいけれど今じゃあこの民宿の看板みたいになっちまってるね」
「独自に作っているのか! ならばなおさらありがたい。そなた達に多大なる感謝を」
「ははっ、そうやって率直に感激されると照れるねぇ」
リアンノンはケーキにフォークを入れ、ゆっくり丁寧に切れ端を口の中へと運ぶ。そして落ちる頬を押さえるように手を当てると、幸せに満ち溢れた表情を見せた。
「おいしい……。昨晩のものよりも甘さも口触りも優れている。良い仕事をしているようだな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
この世の幸福をまるごと味わうごとく歓喜の世界に入り浸るリアンノンと大変満足そうにうなづく女主人。トリスはもはやぐうの音も出ずに固まるばかりで、アリスは興味なさげにコーヒーを口元に運んだ。
「……これ、どういうこと? 今にも感動の涙を流しそうじゃないか」
トリスはやっとの事で口を開いたようで、既に疲労感を漂わせていた。アリスは気にせず読書を続行する。
「彼女にとってケーキはかなり上位に位置するものと考える」
「それ、昨日のケーキ単独の反応じゃあなかったんだ……」
反応の違いは昨晩の食事風景をどう捉えたかの相違によるもの。昨晩のデザートでもリアンノンはケーキを迷わず選択して食したが、露骨に嫌悪感をあらわにしていた。それをトリスは不味さへの憤慨と、アリスは期待を裏切られた失望と捉えていたようだ。
どちらが正しいとはアリスにも断言できなかった。だが一連のやりとりで少しトリスの考え方を把握できた事は僥倖だったとわずかに表情をほころばせる。
「唯一つ言えるのは、致命的欠陥とやらを聞く機会は今ではなさそう」
「だよねー……」
トリスは思いっきり肩を落とし、この世の不幸を全て集めるようなため息を吐いた。
「馳走だった」
しばらくするとようやくリアンノンは満足したようで、フォークを皿に丁寧に置いた。その上で手を組むと祈るように瞑想をする。
呟かれるのは術の詠唱の一部とも受け取れる祈祷。それはたった数秒の短いものだったが、その一瞬だけでも庶民的な宿の食堂を覆う空気が古き良き時代から変化なく存在し続ける神殿のように神秘性を伴っている、そんな錯覚にアリスは陥った。
彼女はゆっくりと瞼を開けると、トリスへと顔を向けた。その時には食堂を覆う空気は元に戻っていたが、リアンノンの仕草には先程の名残がまだ窺えた。
「そういえば荷馬車の用意は?」
「君が寝ている間に俺らは旅支度を済ませてしまったよ。あとは君が手荷物を運べばすぐにでも出発できる」
「さすがだトリス。それではそなたらの提案どおり出発するとしよう」
リアンノンは自分の行いがもたらした影響を露にも感じていないのか、尊厳に満ち溢れた目の輝きは宝石も色褪せて見えるほどに美しく輝いていた。
「ほれ、行くぞアリス。わたし達の新たな旅に」
「……あ」
いつの間にかトリスとリアンノンは食卓からロビーに移動していた。アリスは傍らに立てかけていた杖を掴むと慌てて彼らに追いつく。
「アリス、どうかしたかい?」
「別に問題はない」
様子を窺っていたトリスは少し心配そうに尋ねるものの、アリスは迷いなく首を横に振った。彼は浮かない面持ちになるものの、頭をかいて視線を外した。そして自分の荷物を持つと宿の門を開け放つ。
「んー、アリスがそう言うならそれでいいか」
いつものように淡々とした物腰でトリス達に同行するアリスだったが、英雄物語の本を掴んでいた手は強く握り締められていた。手の平からは汗が流れ出て本が少し湿る。自分でも高揚していると分かっていても静められなかった。
アリスの双眸ははっきりと前方の二人を捕らえ、夜空の星のように静かに輝く。
「冒険談の体現」
「ん? どうかした?」
「な、なんでもない」
アリスはいつの間にか自分がはにかんでいると顔を触ってようやく気付いた。わずかに頬を紅に染めながら視線から逃れるように早足になる。
「さて、忘れ物はないか?」
手綱を握るリアンノンに二人は首を左右に振った。彼女は答えに満足げな笑みを返すとまだ人もいない遠く前方を見据えた。
「それでは出発!」
リアンノンが手綱を振るうと三人の旅人を乗せて荷馬車が軽快に走り出した。
次の日の早朝。アリスはまどろんだ目をしばたたかせて起き上がった。
まだ外は夜が明けたばかりで肌寒く、辺りにはうっすらと霧がでていた。そのために木々の葉の境目から溢れる日光が淡く森を包み込んでいた。
「綺麗」
アリスは幻想的な光景を目にして素直に感嘆の声をもらす。
しばらく心安らいでいたアリスは、馬車の中に自分一人しか残っていないと気付いた。手早く着替えたアリスは本と杖を片手に馬車の周りを徘徊する。
探す事少々、アリスは街道沿いに目を移してようやくトリスを発見できた。
「おはよう」
「あ、おはようアリス」
アリスが朝の挨拶を送って彼はようやく気付いたようだった。トリスは朝にも負けないほどさわやかな笑顔で挨拶を返してくる。
トリスはアリスの見知らぬ人々と語り合っていた。彼らのそばには荷馬車が待機していて、アリス達と同様に都市間を行き来する者達だと分かった。積まれた荷物から行き来を生活の糧にする商人だと判断する。
街道を進んでいたアリス達は野宿をするために馬車を街道から外して森に止めていた。それでも街道からは近い距離だったため、早朝に行き来していた荷馬車に気づく事が出来たのだろう。
「昨日は良く眠れた? おととい俺が忠告したとおり野宿する事になったからね。やっぱり出発の際に布団を買っておいて正解だっただろう」
アリスは思わず顔をわずかにしかめて軽くため息を漏らした。そして杖を何気なく一回転させるとトリスの方へと向ける。
「野宿と貴方曰く『ちょっと豪華な布団一式』の購入理由とは結びつかない。就寝するのなら毛布だけで十分だったはず。それに野宿のきっかけは貴方が予定より早く宿泊街に到着したにもかかわらず調子に乗って馬車を先に進めたせい」
「ま、まあ些細な点は気にしない。俺のこだわりって事で納得してくれ」
「……貴方がそう言うのならこれ以上は何も言わない」
顔を引きつらせるトリスは誤魔化すように向かいの者たちにアリスを紹介する。アリスは頭を一つ下げて応対するに留め、会話に参加しようとはしなかった。トリス達は世間話などで大いに盛り上がっているようだった。
ただ、トリスが会話の端々に素朴な疑問として紛れ込ませていたのは、アリスも知りたかった今後重要になるだろう事柄だった。
「そういえば俺が来たところとアルベルスとの物流が止まったんだよね。疫病が都市を襲ったとか他国が侵略してきたとか物騒な噂は聞かないけれど、真相は一体何なのかな」
トリスの口調は至って自然体。深刻な顔をして肩を掴んで問い詰めても良いほど大きく関わってくるはずなのだが、世間話の延長としてさりげなく語る事で相手は疑問を持とうともしなかった。
彼らはトリスが見せる態度と同じように気さくな様子で次々と語りだした。
「あーアルベルスか。俺たちが寄って来た町の連中も同じ疑問で頭ひねってたぜ」
「まあそんなつまらない話題で盛り上がれるような時代になったって事さ。数十年前を知ってるオレから言わせたら微笑ましい限りだな」
「てめぇの面で微笑ましいなんて口にされると気色悪いな」
大笑いする一行。トリスも思わず笑ったようだった。アリスは無表情でそんな相手一行とのやり取りを黙って観察するだけだった。
「んー、悪いがこっちも直接アルベルスから来たんじゃないからな。人伝に聞いた事情でよけりゃ話すぜ」
「それでも十分に助かる。こっちじゃあなーんも分からなかったしね」
提案をしてきた中年の男性にトリスはわざとらしく困ったように肩をすくめて見せた。再び爆笑する相手側一行。
だがアリスの表情は反対に深刻さを増していく一方だった。アリスが熱心に固定させる視線の先にいるのは相手側一行ではなく、トリスの方だった。
会話を誘導する口調、身振り、視線。全てが見事で自然体。本当にそれが天然のものだとしたら天武の才を持ち合わせた者、狙ってやっているのであればトリスは見た目よりはるかに深い存在という事になる。アリスは彼の一挙一動を見逃そうとしない。
アリスの思惑を他所ににぎやかな談笑は続く。
「なんでも戦争真っ只中みたいに篭城の姿勢を見せてるんだとよ」
「篭城?」
相手の一人が口にした物騒な単語でその場にいた皆の表情が若干真剣なものになる。
「それは言い過ぎかもしれんが都市の門が固く閉ざされているのは確からしいぜ。出入りするには厳重な警備の下で一定の時間でしかできないらしいからな」
「一体何のために?」
「さあな。俺が聞いた相手も分からなかったんだとよ。というかあいつばかりじゃなくて町の連中の誰もが知らないらしいんだ」
ざわめく相手側一行。彼らが次々に意見を口にするが、その結論は「このご時世に理由もなく平民への縛りをするなんて領主は何様のつもりだ」というものに集約できた。
おそらくそれは都市部を行き来している旅商人だからこそ出る意見だろう。アリスはそのように内心で考える。
確かに他の人類圏諸国と比べれば東アヴァロンは平民の地位は高いが、それでも皇帝を頂点とする貴族階級が広大な領土を統治している事に違いはない。土地に根付いた民ならばその土地を長い年月で統治する領主にある程度縛られるのは仕方がなかった。
例えそれが民にとって何の利益を生み出さなくとも。
「けれどアルベルスにとてつもなく重要な事が起こってるのは間違いないぜ」
「ん? 事情知らないのに何でそうだって断言できるんだ?」
確信を込めてうなづく中年の男性に体格が立派で大きい男性が腕を組みながら聞く。素朴な疑問に対して中年の男性は指を振って大きい男性に視線を向けた。
「帝都へ軍の派遣要請を行ったらしい」
「!」
それぞれ違った驚きをあらわにする一同。今度は誰もが言葉を失ったように黙するばかりだった。
東アヴァロンでは頻繁に都市部から地方へと軍の派遣が行われる。それこそ一年ぐらいの頻繁な間隔でやるものだから地方がうんざりするほどだった。
つまり、次の派遣を待たずに派遣を要請するのはよほどの事情が存在する事になる。
「既に帝都側に要請は届いていて軍が出発し始めたらしいな。だからお前さん方が心配しなくとも一ヵ月後には元に戻ってるさ」
「んー、そうだったのか。そんな事情があったとはね。まあ出入りが可能だったら別に問題ないだろうから気にするほどでもないか」
トリスはそんな事よりと、まるで今までの話題が些細なもののように話題の切り替えを行った。相手側にとっても重大なものではなかったらしく、トリスの話題転換に簡単に乗ってきた。
ただ、アリスはトリスが一瞬だけ視線を向けた事に気付いていた。それは気さくな様子で相手に語りかける雰囲気からは想像もできないほど真剣さを秘めていた。
「ところでリアンノンはどこ?」
アリスは一つうなづくと、一旦トリスの言葉が止まったところで切り出した。トリスは姿勢をそのままに首だけを左右に振る。
「さあ。俺が起きた時はまだ眠りについてたみたいだったから」
「邪魔をした。ゆっくりと続けてほしい」
アリスは相手側にお辞儀をしてその場をあとにした。依然続く談笑を背にしながら。
アリスは自らの姿が相手の視線から外れると森を足早に進んでいった。自然の中では所々で引っ掛かる不便なローブを着ていても足取りはしっかりし、木々にぶつかりも躓きもしなかった。
やがて森をぬけたアリスは、目の前の光景に思わず言葉を失った。
石や砂利、岩で出来た一面の中央を小川が流れる。眠ったように静寂に包まれる森の中でも水のせせらぎの音が心地よく聞こえる。
その小川の中心にリアンノンがいた。
「体を洗い流している……いや、身を清めている?」
彼女は衣服を一切纏わぬ生まれながらの姿で丹念に身体を拭いていた。目の端にアリスを捉えていてもおかしくない向きだったがアリスの存在に気付く様子もない。
リアンノンは桶も使わず手で水を掬い取り頭からかぶる。何回か水を被ってから体の隅々まで拭いていく。そして今度は水を体に浴びせて洗い流してゆく。繰り返される一連の動作はまるで儀式の一環を執り行っているかのようだった。
どれほどの経ったのかアリスが時間を忘れた頃、リアンノンは全身をくまなく拭き終えて川岸にあがってくる。彼女はようやくアリスに視線を固定させると、突然アリスの目の前に手を突き出した。
「?」
彼女の透き通るような白くしなやかな指が催促するように動く。思わず眉をひそめてその手を眺めるアリスだったが、やがて近くに置かれたタオルを要求していると分かるとそれを手渡した。
「うむ。感謝する」
リアンノンはアリスが目の前にいてもどこも隠そうとせずに体を拭き始めた。今度はこすりはせずにタオルでやさしく包み込んで水分を無くしてゆく。
「ついでにそれも……うむ。そなたに多大なる感謝を」
アリスは再び手を伸ばしてきたリアンノンへ近くに綺麗に折り畳まれた着替えを手渡した。彼女は大変満足そうに受け取ったが、アリスは反対に目を険しくする。
「これぐらいの距離ならば自分で取ってほしい」
「そなたがそこにいるからであろう。嫌ならば素直に断ればよかったのだ」
「……なるほど、とても正論」
リアンノンはすらっとした腕に白い長手袋を付けてゆく。そして一旦髪をまとめ上げると下着を手にした。
「この場にこちらがいるのは問題だと思っていた」
アリスはリアンノンの瞳をじっと見つめながら呟いた。リアンノンは意外なものを見るような視線をアリスに返すが、やがて微笑を浮かべて下着を身に着ける。
「道徳的にはどうだか知らぬがわたし自身は構わぬ。どうやらそなたはわたしに色欲など抱かず、わたしの挙動の方が興味深いようなのでな。だったら水浴びをしているのがわたしだろうと石像だろうと関係あるまい」
「概ね合っている」
「むう、女のわたしとしては少しは否定してもらいたかったのだがな」
あっさりと即答したアリスに不満があったのか、リアンノンは少し頬を膨らませた。それでもアリスは全く気にするそぶりを見せようともしなかった。
リアンノンはあきらめたように軽いため息をもらすと肩をすくめた。そして無言で上着に手を伸ばそうとし、
「一日の始まりに髪や口の中から足の指先まで綺麗に洗い流す。ただの清潔好きや極度の潔癖症持ちが行うものではない」
唐突なアリスの発言に動きを止めた。
リアンノンに固定されていたアリスの瞳は彼女そのものを瞳の奥底に吸い込んでしまいそうなほど深く、リアンノンを惹き付けていた。
「それは明らかに重要な意味を持つ儀礼。言うなら穢れなき神々に少しでも近づこうとする神官の行為に似ている。貴女の信じる儀式に欲を見せる侮辱は絶対にしない」
「アリス、その話をもっと詳しく」
突然、リアンノンはアリスの手を勢いよく掴む。彼女は物語に登場する姫のように細長い腕をしていながらアリスを掴む手はとても力強く、手を容赦なく締め付けていく。
「今までわたしはこれを朝と晩に繰り返してきたのだが、あくまで変わった習慣だと自分では思っていた。だがもし何らかの重要な意味があるのであれば、どんな些細な手がかりだろうと知っておきたい」
アリスの表情が苦痛でわずかに歪む。食い入るように詰め寄る彼女はアリスしか視界に捉えていないようで、アリスを凝視していた。先程のお清めからは想像もできない剣幕で彼女はアリスに詰め寄る。
さすがに抗議しようかと迷ったアリスだったが、返答より先に非難をすれば間違いなくややこしくなると悟ったため、痛みを表に出さないよう心がけた。
「アリス、頼む」
「……話すのは構わない。けれど個人的主観が多く含まれたものに過ぎない。それでもいいなら準備を整えて出発した後に話す」
「なぜ今でない!」
張り上げたリアンノンが大声は山間部ではないのにこだまが響き渡るのではないかと思わせるほどだった。心なしか静寂に包まれていた森が騒々しくなる。
アリスは目の前の存在を睨みつけていたリアンノンの前に懐から取り出したものを提示した。それは枝のような棒が突き刺さった円盤で、リアンノンがそれを日時計だと分かるのに若干の時間を要した。
「さすがにそろそろ朝食の時間にしなければ旅に支障が出る。焦らずとも馬車の中ではいくらでも時間がある」
凄まじい憤りにも似た表情をするリアンノンだったが、やがてアリスから手を離した。
アリスの手は血の気が失せて青白く変色していた。アリスはゆっくりと手を閉じては開いてほとんどなくなってしまった感覚を戻していく。
リアンノンは自分自身を抱き上げるように腕を掴み、顔をうつむかせた。長い髪が彼女の顔をヴェールのように包み込んでいてアリスには彼女の表情を窺う事はできない。
それでもアリスは確かに彼女が呟いた次の言葉を耳に入れた。
「……その時間すら、わたしには惜しいのだ」
その場でのやり取りは結局それだけで終わった。
手早く着替えたリアンノンはアリスの方に振り向く事なく馬車の方へと立ち去ってしまい、アリスも彼女を追おうとはせずにただ彼女を見つめるだけだった。
「彼女の行き先、習慣、行動、そして取り巻く出来事。何もかもが普通ではない」
アリスの頭の中にはリアンノンの最後の一言が深く刻まれていた。
彼女の悲痛なまでに深刻な面持ちから、それが彼女の本質にまで関わってくるとは容易に想像できた。これ以上の詮索をためらう気持ちもあったものの、だからこそ今のやり取りがより印象深いものになってしまっていた。
そよ風が吹き木々がわずかにざわめく。アリスのローブと髪もわずかに揺れたが、アリスは挙動一つも起こさずに杖を強く握り締める。
「彼女には重大な何かがある」
その瞳は心の中で静かに燃えるような感情を表すように鋭くなっていた。
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