第一章

 荷馬車が舗装されていない道を力強く走る。乗せている荷物が多いために速度はとてものんびりしたもので、せいぜい徒歩で行きかう者たちを追い越す程度だった。
 荷馬車を操る主人も無理に鞭をふるって速度を上げようとはせず、手綱と煙草を片手に優雅なひと時を送っていた。彼がゆっくりと息を吐けば白い煙が浮き上がり、晴れ晴れとした空に消えていく。彼はただその様子をしみじみと眺めているだけだった。
 彼が何気なく道に目を移すと馬車の横を子供がはしゃぎながら追い越していき、その後を二人の男女が荷物を背負って慌てた様子で追いかけていった。ほほえましい光景に温かみを感じて自然に笑みがこぼれた。
「平和だねぇ」
 主人は穏やかに流れる時をたった一言に込めてつぶやいた。
「嬢ちゃんもそうは思わないかい?」
 彼は手綱を固定させたまま後方へと顔を向けた。
 視線の先には箱詰めされた荷物の片隅で本を読みふけっている人物。数日前にこの馬車に乗せたので主人は客人と呼んでいる。まだ未成熟な客人は繊細な指でページを丁寧にめくり、透き通った双眸で主人を捉えた。
「平穏そのもの」
 主人の耳をくすぐったのは風に乗るような涼やかな声。
 主人は始終本に意識を落としていた客人からの返答に軽く驚いく。客人の頭が縦にわずかながら傾き、目元を覆うような前髪が揺れる。
「街道とはいえここは都市から離れた辺境。野党やモンスターが襲ってきてもおかしくないはずなのにその片鱗すらない。今のように女性や子供が行きかうほどに平穏」
「へえ。自分の世界に没頭してると思いきや、ちゃんと要所は捉えてるんだな」
 主人は感心と驚きを入り混じらせて大きく目を見開いていた。固定させた眼に映る客人は一切挙動を変化させず、ただ本のページを滑らかに進めるだけ。主人はそんな見た目とは裏腹に物事を的確に捉えていた客人にただ感嘆の声をあげるだけだった。
 彼は次第に喜びで顔を緩ませ、夏の花が咲くほどの明るい笑いを浮かべた。
「そりゃあ我らが祖国たる東アヴァロンじゃあ頻繁すぎるほど大都市から地方に軍を派遣して治安を安定させてるからな。国のお偉いさん方もようやく都市と都市を結ぶ道のありがたみってのを分かったんだろうぜ」
「更に地方都市や大きな町、辺境にすら帝国直属の軍が常駐する。よって情報伝達も充実し、万が一が起こった際に即座に対応できる」
「おおっ、嬢ちゃんよく知ってるんだな。オレも鼻が高いぜ」
 主人は胸を張りながら盛大に笑った。天まで届くほど高らかに歌い上げる様子は周囲の者の気を引きつけるが、主人も客人も全く気にしようとはしなかった。主人は自分の祖国が熟知されているのがそれほど嬉しいようだった。
「まあ、そんだけ東アヴァロンを取り巻く事情が変わったんだろうな。こうなってからもう十数年ぐらい経つのかな。そう考えりゃあオレも年をとったもんだぜ」
「あいにくこちらはまだ生まれてもいない。同意も否定も致しかねる」
「ははっ。そんなの分かってるって。むしろ嬢ちゃんのような容姿をしてる大人なんぞ見たくもないね」
 主人は豪胆に笑うと自分を指差した上で膝を何回か叩いた。
「嬢ちゃんは見た目相応に子供してればいいってもんよ。枯れて色褪せるなんぞこんな大人になってからで十分なんだからさ」
 客人は前髪だけしか揺れないほど首をわずかに左右に振るのみの反応を示す。まとめ上げた髪を覆うように被せられた独特の形をする帽子は落ちようともしない。
 客人は袖からしおりを取り出して本にはさみ、顔を固定させたまま瞳だけを動かした。目元には帽子と前髪で影が下り若干隠れている。突然の変貌に主人は一瞬背筋を凍らせてしまった。
「それは言い訳に過ぎない。大人であっても輝く物は誰しも持っていたはず。それを色褪るようにしてしまったのは弱さでしかないと考える」
 客人の瞳には主人が鏡のように映る。姿形だけでなく映るものの全てを見透かすような深い色が湛えられている。
 主人は苦笑いを浮かべながら客人から視線をそらし、あさっての方向を遠く眺めた。
「そう思えたらどれだけ良かった事やら。オレはあいにく嬢ちゃんのように強い意志を心の中で燃え上がらせてるわけじゃないんでね」
「……そう」
 客人は訝しげに眉をひそめる。
 主人は馬の手綱を軽く操作して曲がり道をうまく走らせた。荷馬車が石を踏んで大きく揺れ、客人のそばに立てかかっていた豪奢な杖も拍子に倒れる。
 客人は気にする様子を見せず、再び質素な灰色のローブの袖からわずかに出した指先でページをめくる。視線も主人からは外して手元の本に固定させた。
 進行方向を見据えていた主人だったが、何度も客人に視線を向けたり外したりを繰り返す。しかしどのタイミングで振り向いても客人は一向に変わった様子を見せなかった。
 穏やかな静寂へ業を煮やした主人は頬を平手で強く叩く。そして身体をねじって客人の方へと向けた。客人はほんのわずか眉をひそめる。
「こちらに意識を割いては荷馬車が道を大きく外れる」
「この道は平坦で往来も少ない上にちょっとやそっとなら馬が勝手に修正してくれる。構いやしないね」
 主人は更に身を大きく乗り出して客人が広げている書物を覗き見た。
 本には文字が遠目からでは読めないほど細かく記されている。読める箇所があっても主人が知らない単語ばかりが並べられていて理解ができない。主人は確認の直後には表情を露骨に歪め、大きく引き下がってしまう。
「うーん、愛読する本が何なのかと思ったが……読み書きの苦手なオレには到底理解できない小難しい代物だったみたいだな」
「そうでもない」
 客人はおもむろに本の背表紙を主人の方へと向けた。それを目にした主人は思わず本に向けて指を差し、軽く驚いた声を漏らした。
 ハードカバーの背表紙に記された題名には冒険という単語があり、一人の剣を携えた男が禍々しい姿をする存在に立ち向かう一枚絵が丁寧に描かれていた。
「それ、もしかしてオレでも知ってるような英雄物語じゃないか。けれどそれって確か童話じゃなかったっけか?」
「この英雄物語は童話もあれば数十冊にも及ぶ書物もあるし、事実を元に記された歴史書もある。いずれも筆者の改変こそ加えられているものの基本的な内容は同じ。そのように嫌悪感をあらわにするものではない」
 今まで抑揚の無い平淡な口調で語っていた客人の言葉は語尾がやや強調されていた。
 客人の顔はいつの間にか主人の方に向けられていて、真剣な眼差しを彼に固定させていた。それはほんのわずかな変化を見せただけだったが、静かに燃え上がる何かを主人は客から感じ取った。
「そ、そうだよな。どんな内容かまでは知らないけど、確か華々しく彩られた栄光と勇姿に飾られた英雄サマがご活躍なさるって話だよな。絵本ならオレも子供に読んで聞かせてるんだが、あいにくそういった本には目を通した事もないや」
「絵本とこの書物とでは細部が違う。手ごろな値段で入手可能だからぜひ読破する事を勧める」
 主人は客人の予想外の剣幕に一瞬だけ思わずたじろいでしまう。そのため、「気が向いたら」とだけ答えて話題を避けるように体勢を元に戻した。
 手綱を軽く波立たせると馬は軽快に走り出し、荷馬車の速度が心なしか増した。
「それで嬢ちゃん。これからどこに向かおうとしてるんで?」
 主人は視線と姿勢はそのままに態度を先程にも増して気さくなものへと変化させる。客人は先程の余韻を名残惜しそうに肩を落とすと直前と同様に本に視線を落とした。
「あなたの目的地。だから便乗させてもらった」
「いや違うって。オレの目的地まで行った後どうすんのかって聞いてんだ」
 客人の服装は東アヴァロンでも数多く見かける典型的な術者のもの。にもかかわらず術者が旅先でもよく持ち運びする研究用具や術の書物は一切所持していなかった。客人の荷物は数冊の本を除けば旅に最低限必要なものしかそろっていないのだ。
 まだ数を重ねていない年齢の術者が術の学院にも行かず、たった一人でのんびりとした旅をしていたため、主人は純粋に好奇心を抱くのだった。
 客人の視線が本からほんの僅かに上がる。
「帝都に赴く予定。あそこならば探し物がきっとあると信じている」
「帝都! そりゃまた長旅になりそうだな。だからオレの馬車でとりあえず地方都市に出て乗合馬車にでも乗ろうっていう算段か」
「その予定だけれど明日には明日の風が吹く。どうなるかは分からない」
 主人は荷馬車を少しだけ操作しながら果てなく広がる光景を、客人は本に書かれた壮大な世界をそれぞれ眺める。それでいて互いに言葉を何度も交わした。
 やがて主人の視界に高くそびえる白く彩られた城壁が見えてきた。
 それは壁の内側を覆うように囲んでいて、外側にも家屋が密集している。街中を人々がにぎやかに往来する様子は遠くから眺めても窺えた。街道は家屋の間から外へと何本も伸び、その内の一つは馬車が今走る街道にも繋がっていた。
 それは農村やにぎやかな町とは違った独特の趣きを見せる。東アヴァロンに点在する地方都市の一つが持つ姿だった。
「見えてきたぜ嬢ちゃん。あそこがオレの目的地ってやつだ。オレはこのまま荷を商人に届けて新たな荷物を乗せて引き返さにゃあならんから、まだ進む先がある嬢ちゃんとはお別れだ」
「そう」
「……まあ、がんばんなよ」
 客人は感情のこもっていないような抑揚の無い声で一言返事をしただけ。そんな有様に主人は思わず深いため息を漏らしていた。
 未成熟で中性的かつ端整な容姿、ローブの上からでも一目瞭然な華奢な体つき、そして物静かな様子を何度注視しても主人の目には客人が少女にしか見えなかった。そんな幼い子供が術者としてなぜ旅をしているのかと、どこか複雑な感情を抱いていた。
「ありがとう」
「え?」
 あまりに唐突な言葉だったため、主人は始めのうち耳を疑ってしまった。呆けながらも声がした方向に振り向くと、真摯な面持ちで主人を見つめる客人の姿があった。
 客人の手元に本は無く、代わりに主人の手の方へと差し出している。
「ここまで運んでくれた貴方に多大なる感謝を」
 客人は深々と頭を下げた。
 主人は客人の予想外の行動に戸惑いを隠しきれない。旅を共にした数日間と全く同じ様子を見せる客人へ慌てふためきながら首を左右に振った。
「お、おいよせって。……しかし悪い気分じゃあないな」
 主人は照れ笑いを浮かべつつ頭をかく。もちろんもう片方の手で客人と固く握手を交わして。
 なおも瞳に相手を映らせる客人に対し咳払いを一つ行うと、主人は今までのような気さくではない真剣な面持ちで口を開いた。
「そんじゃあ最後に嬢ちゃん。名前を聞かせてくれよ」
「なまえ?」
「一応オレの方は嬢ちゃんに名前を伝えたし、そっちの名前も聞いておきたいんだ」
 それは主人が客人にした最初で最後の嘘だった。往来が激しく頻繁に旅人を乗せる主人は一回きりの出会いだけで相手の名を聞いた事などなかった。自己紹介はいつもするが、別れが必然である客人の名を伺うなど初めての事だった。
 その要望に一番驚いているのは客人ではなく主人本人。客人も意外だったようだが主人の動揺はその比ではなかった。琴線を引く事は前にもあったが、まさか自分がこのような行動に出るとは想像すらしていなかったのだ。
 やがて客人は真正面から主人の眼差しを真摯に受け止めた。
「アリス、と。そう呼んでくれればいい」
 客人、アリスは指で苗字と名前の全てを空に書き記した。
「アリス。アリスねぇ……」
 主人は客人の本名に些か驚きながらもその名を深く心に刻み、満足そうに笑みを浮かべた。彼はそのままの表情で会話をそれきりにし、馬に鞭を入れる。
 荷馬車が軽快に道を疾走して中が大きく揺れる。主人は全く気にせずにさわやかに心地よく流れる風を受け止め、極上の美酒をあおるかのように味わっていた。


 都市を守るように建造された白き城壁。都市が発展したからこそ城壁の外側にも街は広がっていたが、都市部を結ぶ乗合馬車の駅舎は内側にあった。そのため、アリスは内側に入るために幾重にも渡る必要な手続きを覚悟していたが、荷馬車の主人がこの都市と関係が深かったため最小限の手続きで通行できた。
 主人に改めて感謝の意を示そうとすると、主人からは「礼はいらない」と即答されてしまった。そのためアリスは深い会釈するだけで済ませた。
「これでお別れなのはちと寂しいが、元気でやれよ」
「運があればまたいつか会える。その時を楽しみにしている」
 アリスは荷馬車を走らせる主人が視界からいなくなるまで見送る。主人も前方の様子などお構いなくアリスに向けてずっと手を振り続けた。
 やがて主人が人の波へと消えると、アリスは街を突き抜ける大通りを歩み始めた。
 道を行きかう人々は活気に満ち溢れていて街はとてもにぎやかだった。それに負けじと左右の店舗は声をあげて客を引き込もうとする。他にも落ち着いた雰囲気を持つ喫茶店や洋服屋があり、行列が並ぶ料理店もいくつか見られた。
 アリスは主人から教えられた乗合馬車の駅の位置を記した紙の切れ端と大通りの様子を見比べながら交差点を曲がる。多くの人々を魅力する街中でもアリスが足を止めるようなものはなく、行きかう人々もそんなアリスを気にする事はなかった。
 やがてアリスは街中でも開けた広場にたどり着いた。
 目の前に広がる光景は手入れの行き届いた駿馬に繋がれた馬車がいくつも連なる姿。そのほとんどが馬の単数複数関係なく次の旅路への準備が整えられていた。
 そして広場の奥には広場の全てを見下ろせるほど一際大きな駅舎がそびえる。そこにはこの町の住人ではないと判断できる服装をした人々が絶える事無く出入りしていた。それは外からの来訪者が多いこの町の縮図とも言えた。
「…………」
 アリスは多くの人が壮大だと表現するだろう光景にも何の感慨も抱かず、歩きながら読み進めていた本を片手に駅舎の扉を開いた。
 建造物の中は外観を裏切らずに広く間取りされていた。床や壁、天井も木製で重さを感じさせない。空間の中央には花が飾られていて、窓から差し込む日光で照らし出される。
 ふと壁に視線を移すと、威厳高く描かれている肖像画が立てかけられていた。
 描かれた女性は化粧をうっすらと施しているだけだったが、あまりある素の美しさがあった。容姿はこの世に二人といない絶世の美女とはさすがに表現できなかったし、衣服や装飾も巷で見かける貴族達よりも飾りだてしておらず質素そのもの。一切取り繕うとはしないありのままを描かせたかのようだった。
 なにより特徴的だったのは彼女の首筋だった。蝋燭のように白いそれは儚くもあり魅惑的でもあり、まるで芸術作品のように隙がない。
「東アヴァロン女帝、エシスト……」
 アリスが思わず女性の正体を口ずさむほどその絵は人をひきつけていた。
 その絵はありのままを描きながらも風格を一切損ねていない。宝石のような眼差しはまるで国全体を虜にするように妖艶でありながら鋭く力強い。威風堂々としたたたずまいは間違いなく大国を支配する女帝のものだった。
 行きかう人々も誰もが通り過ぎる度に一度は視線を移していく。中には手を合わせて拝む老人までいるほどだった。
「興味深い」
 アリスはたった一枚の絵でこれだけの存在感を示す人物に純粋な興味を抱く。ローブを翻して絵から視線を外したのはやや時が経ってからの事だった。
 乗合馬車の受付窓口はいくつもあり、東アヴァロンだけではなく様々な行き先が表示されていた。さすがに受付に集う人数は行き先によって異なっており、帝都などの大都市に向かおうとする人は多かった。とりわけ帝都行きは行列ができているほどだった。
 並べばしばらく立ち往生になるだろうと容易に想像できたアリスは若干眉間にしわをよせながらもおとなしく最後尾に並ぶ。荷馬車の主人に貰っていた軽食を口にしながら何も考える事無く時を刻んでゆく。
「すまないがそれを一個くれないか?」
 唐突に耳に入ってきたのはカーテンを揺らすように穏やかな一言だった。アリスはそれが自分に向けられていると気付くのに若干の時間を要した。
 遅れて振り向くと、そこにいたのはアリスより背がふたまわりほど高い青年だった。
 彼が背負っているのは一級品とアリスの素人目でも断定できるほどの盾、そして布に包まれた剣と思われし物体が二つ。対称的に鎧は傭兵が好むような量産型の軽装で、荷物は一人旅を続けるアリスと同程度の大きさだった。
 しかし当の本人は戦士や傭兵らしくない。口調と同じように非常に温和な印象を抱かせてしまう佇まいがいけないのか。アリスはこの者は剣と盾よりももっとふさわしい物があるのではないかと何気なく思ったが、具体例は何一つ思い浮かばなかった。
「そうその食べ物。実は朝から何も食べててなくてお腹が空いているんだ。後生だから頼むよ」
 アリスの思考を他所に相手は食いかけを指し示し、手を合わせて頭を下げた。懇願をしていても温厚の一言で表現できる様子は全く崩れない。
 アリスはしばし考え込んで食べかけ以外の食事を全て旅人に手渡す。アリスは全く気にしなかったが、その量は明らかにアリスが食した量よりも多い。
 相手も驚いた様子を隠そうとせずアリスと食事を見比べる。
「ありがとうね。こんなにもらっちゃって申し訳ない」
「いい、別に」
 頭を何度も丁寧に下げる相手を他所にアリスは手元にあった本を開いた。
「本当にごめんね。これって君の食事だったんだろう。あいにく金は旅費しかないから物品で返そうかと思うんだけど……」
「貴方が満足してくれれば構わない。こちらは別に少なめでも十分」
「けれど……いや、分かった、本当にありがとう。君のおかげで本当に助かったよ」
 相手はどこか儚げで弱々しい笑みを浮かべてもう一度頭を下げる。
 アリスは見開いたページに挟み込んでいたしおりを取り除くと、灰色に染まった袖からのぞかせた指でページをめくる。そして目を走らせようと左上に視線を移すと、目の端にその相手がアリスの方へと差し伸べてられている手が見えた。
「俺はトリスっていうんだけど君の名前は?」
 視線を本からわずかにずらしたアリスの目はトリスを真正面から捉えた。
 相手は慇懃な物腰でアリスに頭を下げていた。彼が身に着けていた鎧が楽器のように軽やかに鳴り響く。
「……アリス、と呼んでくれればいい」
「アリス、アリスかー」
 アリスは視線はそのままにしたが手を差し伸べはしなかった。
 トリスと名乗った旅人はそれを気にする様子もなく顔を緩ませながらしきりに頷いた。その仕草に言い表せない複雑な感情を覚えたアリスは若干思考を走らせ一つの可能性に思い当る。アリスはとうとう視線を本から完全に外した。
「勘違いしているようだけれど、こう見えても男」
「えっ……?」
 一瞬固まるトリス。次にはアリスを指差して頭から指先までを何度も見渡して、最後にアリスの顔で止まる。
「嘘だろ?」
「本当」
 アリスの視線にからかいなど微塵もなく、今の発言は事実だと冷たく物語る。目を丸くするトリスだったが、やがて苦笑いを張り付かせたまま首を左右に振る。
「女と見間違うほど華奢な体躯だったからそう思ったんだけど、どうやら俺の観察眼は思った以上に落ちていたんだな」
「貴方の目が節穴だけだった話」
「うわ、それは辛辣だな。まあ事実だけに否定しようも無いけれど、別にアリスが男だろうと女だろうと食事を恵んでくれたのに変わりはない。感謝の気持ちもそのままさ」
「そう」
 アリスはトリスから視線を外して彼の行き先表示を確かめる。そこに記されていたのは千年の繁栄が約束されたという美しいと有名な都市の名。帝都より若干遠く方向も異なるので、トリスというこの人物とはこれで最初で最後なのだろうと素直に受け止めた。
「また、出会えるといいな」
「運があればまたいつか会える。その時を楽しみにしている」
「ああ、もちろんだとも。いつか必ずまた会おう」
 アリスは先程荷馬車の主人にも送った言葉をそのままトリスにも送った。トリスもまた食事を分けた時から全く変わらないほがらかな笑みを絶やさずにうなづいた。
 二人は僅かな時間互いを見詰め合う。瞳には相手の姿が映し出され、映し出された相手の瞳には自分がいる。もちろん実際は小さすぎて見えないのだが、アリスにそう錯覚させるほどトリスの瞳は澄みきって美しく深かった。
 ふとアリスは一つの可能性に思い当たり、思わず息を呑んでいだ。
「貴方はもしかして本当に再会できると思っている?」
 あくまでも淡々とした問いかけにトリスは目をきょとんとさせる。やがて彼は大きく声をあげるとそれに負けないほど大きく頷いた。
「もちろんじゃないか。一度言葉を交わした相手ともう一度巡り合うのに神様のご加護なんて必要ないよ。大切なのはね、もう一度会おうって強い意志なんだから」
 アリスは唖然とトリスの豪語を聴くしかなかった。頭の中が混濁して考えがまとまらずにトリスへの反応を一切示せなかった。
 それが表情に滲み出ていたのか、トリスは慌てふためいたように汗を拭う。
「ご、ごめん。自分の意見を君に押し付けちゃったようだね。それで昔とある女性とも喧嘩に陥ってそれ以来疎遠に――」
「話がずれてる。それにただ驚いてしまっただけだから貴方に非はない。むしろ貴方の意見は非常に心に残る」
「本当かい? それだったらこっちも嬉しいんだけれどね」
 アリスは素直にうなづいた。アリスの持つ本の厚さの半分にも満たないほど小さな動きだったが、その動きはとても柔らかかった。
「そうか。そうかー」
 トリスは涼しくもある温かみに満ちた笑みで何度もうなづいた。アリスもそれに影響されて自然と表情が緩むのを自覚できた。
 二人の会話はそれで終了した。二人の間には何事もなかったようにお互いを気にすることなく時を過ごしてゆく。アリスは読書を、トリスは前をうかがいながら盾を楽器を弾くように指で叩く。
 辺りは活気に満ち溢れてにぎやかなものだったが、アリスにとっては図書館と同じで読書するのになんの不自由もなかった。指をしなやかに走らせてページをめくっていく様子は周りで並ぶ何人かを何気なく惹きつける。
「どういうことか説明するがよい!」
 そんな中、不意に駅舎の中に響いたのは感情をあらわにした驚愕の声だった。
 丁度読んでいる物語は終盤に差し掛かった辺り。周りを特に気にしないアリスでも無視できないほどその声は存在感を示していた。
 アリスは静かに本を閉じて反対方向に視線を移すと、やや遠くの受付でまだ幼さを残しながらも熟れた身体をする女性が身を乗り出して事務員に迫っていた。女性は背負っている独特の形をした弓を今にも構えそうなほど真剣で、あたりは騒然となる。
「時刻表には一週間おきに運行だと明記されておる。外には馬車があれだけ多く待機しているにも関わらずなぜ運行中止になるのか、詳細説明を要求するぞ」
 事務員はそんなものは全く気にならない様子で手に持っている書類から目を離そうともせずに一点を指差す。そこにあるのは「本日都合により運行中止」とだけ書かれて張り出された紙一枚。説明書きもなにもなく、ただその一文だけで責任を全て果たしましたと言わんばかりの物だった。
「だからこっちも詳しい話は知らないんだって。分かってるのはあっちの方で物騒な話が持ち上がってるってぐらいだ。おっと、詳しい話は聞くなよ。情報が交錯してて俺らも分からないんだって。とにかくあっち側が受け入れを拒んできたんだから運行中止は当たり前だろ。あいにくだが今度また出直してくるか個人で借り受けるかしてきてくれ」
「そんなもので納得など出来るか! 先方の都合で運行中止になったのであれば謝罪なり意見なり、何らかの説明が送られるはずであろう。そのような体たらくで公共交通とは聞いて呆れるわ!」
 女性は毅然とした態度で強くかぶりをきった。彼女の主張は乗合馬車の利用者からすれば最もな意見だと受け止められたのか、その場にいる大勢がうなづく。
 だが事務員は鬱陶しさを追い払うように手を上下に動かす仕草をするだけだった。
「そりゃ残念だったな。おととい来てりゃあよかったのに」
 駅舎の皆が女性と事務員のやりとりに注目する。いつの間にか誰もが会話をやめ、しんと静まり返っていた。
 アリスは職員の失礼な態度を氷のように冷たい視線で眺め、やがて興味を失ったように本に意識を戻した。トリスもしばらくその様子を眺めていたが、やがてため息一つもらすとアリスに視線を移した。
「確かに彼女の主張はもっともなんだけれど、もうちょっと融通を利かせてもいいような気がするね。別にここから彼女が目指す場所は直線距離じゃないといけないってほどでもないし、他の都市を経由しても大丈夫だと思うんだけれど、どう思う?」
「分からない。けれどこの問題は目的地に到達する事が主題ではないではない気がする」
 女性の行き先は山脈のふもとにある高原に位置する地方都市。国境近くでもなければ海にも面しておらず、物流からもやや離れている。古代の都市遺跡が存在するだけの東アヴァロン国内にありふれた都市の一つだった。
「都市で噂にならないけれど乗合馬車が運行中止になるほどの出来事か。ものすごく中途半端で曖昧だな。あまり想像できないな」
 トリスは場を覆う空気を尻目にするアリスを窺って苦笑した。
「関心がなくなったら容赦なく切り捨てるんだね」
「既に彼女の本題から外れている以上どうでもいい。それに他人の私事に首を向けられるほど一人前ではない。貴方はどうなの?」
「……言われてみれば俺もそうだな。さすがに困った人全員に差し伸べて導けるほど俺は凄くはなかったっけ」
 トリスは苦笑いを浮かべるとあっさりとアリスの言葉に同意し、あくびを噛み殺しながら順番待ちに戻った。女性と事務員のやりとりはなおも続いていたが、次第に他の人々も女性たちから視線を外していき、活気に満ちた場に戻っていく。
 やがてアリスの前に並んでいた人物が列から外れ、ようやく手続きの番が回ってくる。アリスが前に進み出ると机越しにいる事務員は気軽な調子で席に座るよう促した。
「えっと、帝都行きを希望するんだね」
 アリスは返事の代わりに首をほんのわずか縦に傾ける。事務員は机の上に広げた紙にペンを走らせてゆくが、日付と時刻の欄で止まる。
「あいにくだけど今日の自由席はいっぱいなんだ。すし詰め状態を我慢できるならすぐにでも出発できるけれど、あんまりお勧めはしない。三日後の便を予約すれば快適な旅ができるけれど、どうする?」
「すし詰めとはどれぐらい?」
「たぶん……これぐらいの幅しかとれないんじゃないかな」
 事務員が机の上で人差し指を長方形に走らせる。丁度それは事務員の肩から肘先を一辺とした長方形ほどの面積だった。アリスは表情をわずかに曇らせる。
「多分寝転がって睡眠なんて取れないし、手洗い済ますのにも人を掻き分けなきゃならないだろう。出来てもせいぜい本を読む程度かな。それでも構わない?」
「そう、なら遠慮させてもらう」
 アリスはあっさりと言い放つときびすを返して列から離れた。事務員がアリスに向けてなにかを語っていたが、アリスにとって既に失敗に終わった選択肢は過去のもの、興味も未練も全くなかった。
 人ごみから抜け出そうとするアリスに肩を並べたのはトリスだった。列も丁度同じ位置だったので同時に手続きが済むのは十分考えられた。故にアリスは全く驚かなかった。
「参った。こっちの馬車は雑魚寝すら出来ないほどいっぱいだった。そっちは?」
 アリスは鈴も鳴りようもないほど僅かに首を左右に振る。トリスもさすがに軽くうんざりしたように疲労を表に出した。
「んー、時期が悪かったのかな? この季節になると人の往来が激しくなるらしいけれど乗合馬車まで満席になるとは考えにくいし、どうなんだろう」
 アリスの頭の中にはいくつかトリスの疑問に対する答えが浮かんだが、結局馬車に乗れない事実に変わりはないのであえて沈黙する事にした。
「どうしようかな。馬車が使えないとなれば少々値は高いけど貸切の馬車でも使ってしまうか。ちなみに聞いてみるけど、アリスはどうするつもりなんだい?」
「まだ太陽は沈んでない。宿を取ってくつろぐには早すぎ。自ずと選ぶ選択肢も定まる」
 全ての幸福が零れ落ちるほどの深いため息を漏らすトリスをよそに、アリスは出口へ向けて歩み始めた。トリスはアリスの体躯や服装と豪奢な杖や大きな荷物とを見比べて、アリスの後を追いかけ始める。
「まさかとは思うけれど、こんな夕方からここを出発するつもりじゃないだろうね」
「そのまさか。この都市の宿屋を使えるほどの金銭を持ち合わせていない。帝都までの旅費は十分にあるからこの都市での長居の必要性は皆無」
 アリスは後ろを追うトリスを気にする様子を全く見せずに自分の速度で歩行を進める。トリスは頭二つほど小さい身体をしたアリスに早歩きをしなければ並べなかった。
「いくら平穏な世の中でもまだまだモンスターは街の外をうろついてる。たった一人で行くなんて無茶もいいところだと思うけれど」
「心配は無用。自衛の術は身に付けている」
「いや、それでもさ……」
 アリスの瞳は純粋無垢そのもの。驕りたかぶりも卑下もなく、ただ事実のありのままを淀みなくトリスに伝えていた。
 トリスは一心不乱に唸りながら腕を組んで視線を彷徨わせた。考える姿は温厚だった先程とは打って変わって凛々しいもので、周囲の目を惹きつける。アリスは他人同然の彼を放って先に進む事も出来たが、少なくとも彼に少々の興味はあったので黙って見守る。
「よし、決めた」
 トリスは手をついて、静かな炎を瞳に宿しながらアリスの肩を掴んだ。その手は力強く固定されていたため、アリスの身体は微動たりともしなかった。更に握力も無視できないほど強く、端整で無表情だったアリスの顔が苦痛で歪む。
「痛い」
「あ……ごめんよっ」
 トリスは慌てふためきながら手を引っ込める。
 やがてトリスは咳払いを一つして間を取ると、改めて真剣な眼差しをアリスに向けた。
「俺は君に同行しよう、アリス」
 思わず立ち止まって彼を眺めるアリス。目をわずかだが見開き、自然と瞬きの回数は多くなる。そして視線はトリスに固定させて離せなかった。
 若干の間を挟んでトリスは自分と目の前の青年を交互に指差す。
「あなたが、同行を?」
「ああ」
「なぜ?」
 トリスは眉をひそめるアリスの持つ杖を指差す。
「それから察するにアリスは術者なんだよね。しかもどちらかと言えば攻撃じゃなくて補助に向いていそうだ。だから君の言う自衛とはその場をしのぐ手段って事だよね」
「……貴方の言うとおり」
 アリスは思わず目を丸くした。そしてなおも先程と一切変わらない様子のトリスと自らの杖を見比べる。
 確かにアリスの杖は他の術者が所有するものとは大分違うものだった。アリスの杖はまるで国主催の大儀式で用いられるほどの豪華な作りになっている。宝石や黄金は使われていなかったが、装飾は一流の職人が手間をかけて創ったように細かい。
 だがそれは月や星などの自然を表したものではなく、炎や水などの要素を具現化したものでもない。あくまで記号と掘り込まれた文字が複雑な魔方陣を構成しているものに過ぎない。
「この杖からだけで行使する術を特定するとは、正に慧眼」
「いやいや。君より少しばかり長生きしてるためじゃないかな」
 トリスは何でもないように笑い声を上げるが、アリスにとってはごまかされているようにしか感じられなかった。
「話を戻すよ。だから君には術を構成するまでの時間を稼ぐ前衛が必要だと思うんだ。俺は一応これでも色々な地域を回ってるから力になれると思う」
 アリスは驚愕を隠さずただトリスを唖然と眺める。厳かにうなづくトリスからは一見すると何も変わっていないようで先程の温和な印象は全く感られなかった。
 やがて本来の落ち着きを取り戻したアリスは冷静に思考を張り巡らせ、彼の言動に裏が無いかを考え始める。
 やがてアリスは真剣な面持ちでトリスと向き合うが、そんなアリスすら包み込みそうなほど彼は大きく見えた。
「あまりに都合が良すぎる。それに貴方の行き先は帝都とは違う方向のはず。そしてこの旅には貴方ほどの方が同行する重要性が全く無い。同行の理由は皆無に等しい」
「まあ言ってる事はごもっともなんだけれど俺の旅はそこまで急ぐ必要が無いんだ。だから別に寄り道ぐらいはしてもいいかな、とか思っていたりしてる」
 彼の気さくな笑いからは裏は感じられない。彼は全く様子を変化させずに大胆な意見を言っているだけだろうとアリスは推測する。
 やがてアリスは再び帽子も揺れないほどの細かな動作で静かに頷いた。
「……分かった。こちらとしても貴方の同行はとても嬉しい」
 トリスは満足そうに白い歯を見せて笑みをこぼし、アリスに再び手を差し伸べた。
「これからよろしくな。アリス」
「よろしくお願いする」
 アリスはその手をまじまじと見つめ、今度は綿を掴むように手を差し伸べる。トリスはそれをかたく握った。
「貴方はとても変わっている」
「よく言われるよ」
 たった一言に集約されたアリスの感想に、トリスは今度こそごまかすように視線をそらしながら笑った。
「それで、どうやって帝都に向かうんだい? まさか徒歩でなんて言わないよね」
 アリスは何気ないように壁に貼られていた人類圏の地図に視線を移した。
 広大な人類権に数多くある諸国の中でも東アヴァロンは何割かの領土を占めていた。だが東アヴァロンの街道と主な都市の多さは決して領土に比例したものだけではなかった。
 アリスは現在位置と帝都の間を結ぶ道筋を確かめた上で地図の縮尺と比較する。街道に沿うように指をなぞらせていたが、やがて首を左右に振った。
「それならば二日滞在して乗合馬車に乗った方が早い。時間が押し迫っている旅ではないけれど、なるべく早くに帝都に到着できるのに越した事はない」
「けれどこのポスターの謳い文句に負けてる様子だと、あさっても期待できそうにないと思うけれどね」
 トリスは駅舎の柱に貼られているポスターを無造作に指し示す。そこには『周辺都市へは安定物量と安心価格で丁重のある乗合馬車を!』と壮大に書かれていた。
 しかし先程の令嬢と職員とのやり取りや今の混雑状況を考えるとアリスはため息しか出なかった。
「東アヴァロンでは広大な領域を発展させるために物量の行き来を重視し、街道の治安も整備も行き届いている。だから馬車が最も充実した交通手段だと思ったけれど……」
「実際はその利便性から人々が押し寄せる羽目になっていて馬車の絶対数が決定的に不足しているようだね。川に接してない内陸部は船も使えないし、輸送力不足の抜本的解決はなし。もうこの問題は俺達一般人にはお手上げじゃない?」
 アリスはわずかに顔を曇らせると目じりを手で摘んだ。トリスはアリスを元気付けるように肩を叩くと、指で現在位置と帝都の間を道や山川関係なく一直線に描く。
「だったら東アヴァロンの国旗にも描かれる帝国の象徴、竜のタクシーはどう? 若干値は高くつくけど空を移動するから最速最短の手段だろうね」
「そうしたかったけれど財布事情で断念した」
「冗談だよ冗談。飛竜なんて大富豪にしか許されない高さだしね」
 アリスは顔を上げてあからさまな非難の目をトリスに送った。トリスは大げさに両腕を上げて息を軽く吐いてみせる。しかし表情は変化を見せず、むしろどこか嬉しそうに笑みをこぼしていた。
「なら君にいい考えはあるのかい?」
「言うまでもなく馬車で帝都に行く。経費も手ごろでそこそこ早いから移動には最善」
 それは瞬きする間もないほどの即答だった。アリスはそれが当たり前のような口調で語ったが、トリスは思い当たるものがあったのか、直後に若干顔を引きつらせた。
「え、けれど乗合馬車が駄目って事はもしかして……」
「無論、帝都行きの荷物馬車に便乗させてもらう。街中を探さずとも帝都への道は一本だから目的の馬車に遭遇する可能性は高いと思われ、最善の選択だと考えられる」
「やっぱり」
 トリスは思わず顔に手を立てて首を左右に振った。
「便乗なんてとても後ろめたい言葉だ。もうちょっとスマートな考えを進言したいよ」
「金はなくとも主人には代価を払っている。何処にも問題は無い」
「そういう問題じゃ無い気がするんだがね」
 窓の外に広がる空とうっすらと浮かぶ雲は橙色で鮮やかに染まっていた。駅舎を往来する人々も先程とは異なり、仕事を終えたと思われる男性が多くなってきていた。
 その中でいかにも日常の仕事とは無関係の格好をしたトリスとアリスは否応無しに周囲の視線を集めていた。
「急がない旅ならせめて今晩だけでもこの都市に泊まらない? そして明日日の出と同時に出発すれば旅の疲れも取れると思うんだけれど。宿泊費なら俺が奢るからさ」
「そうしたければすればいい。一向に構わない」
「そうしたら俺を置き去りにして出発するつもりだろう君は。勘弁してくれよ」
 わざとらしく肩をすくめるトリスをよそにアリスは駅舎の出口へと足を進める。
 質素なローブはまるで寝間着のようにゆったりとしているために、小柄なアリスの身体を更に小さく見せている。だからか、周囲と比べてもアリスの歩調はとても早く見え、余裕を持って窺っていたトリスは途端に焦りだした。
 彼は慌てて床に下ろした荷物を肩にかけようとして、柔らかい何かと接触した。
「えっ?」
「きゃっ!」
 拍子に上がるのは二人分の驚愕だった。
 荷物に引きずられる形で体勢を崩したトリスは盛大な音を立てて床に倒れる。その直後に同じような音が賑やかな駅舎の中に響き渡った。
 辺りは一瞬静まり返ったが、すぐにいつもの賑やかさを取り戻してゆく。ただ一人、アリスだけはどこか呆れ果てたように軽いため息を一つ漏らした。
「周囲も見ずに行動に移るから他人に接触させてしまう。貴方の明らかな迂闊」
「じ、事実だけどそうはっきりと言わないでくれ。ごめん、大丈夫だったかい?」
 トリスは軽やかに立ち上がると向かい側に倒れた人物に手を差し伸べた。
「あたた……。い、一体そなたはどこに目をつけて日々を送っておるのだ!」
 接触された人物は腹部をさすりながら声を張り上げる。ただし律儀にもトリスの手助けは受け取って立ち上がった。
「そんな安穏と日常を過ごすような真似をしているからこのような事故を巻き起こすのであろう。以後気を引き締めておくがよい」
 その人物はトリスの鼻先に鋭く指を突きつけた。
 彼女は数刻前まで職員と言い争いをしていた女性だった。簡易的な冒険者にも見えて貴族のドレスにも見える独特の雰囲気を持った服装を身にまとう。威厳高き堂々とした物腰と口調は先程と全く変わった様子がない。
 トリスは微笑んだまま彼女の指先からゆっくりとずれる。
「意外だね。君の言い方だと僕を非難しているのではなく、今後こんな失態を犯さないよう諭しているように聞こえるんだけれど」
「聞こえるのではなく事実そうしているつもりでおる。非難をしたところで起こった事実は変えようもない。ならばそなたの次に繋がるようにせねばなるまい。違うか?」
「……まいったな。こっちの愚問だったようだ」
 トリスは呆気に取られて目を大きく見開いたが、やがて満足そうに笑みを浮かべた。女性は肩を一つすくめると、今の出来事を綺麗さっぱりと忘れたように落ち着いた様子で腰に手を当てた。
「まあよい。そなたの行動に結びつくかはわたしの問題ではないゆえにさておき、そなた達はどうやらこの後の行動について迷っているようだな」
 突然の話題転換にもトリスは驚いた様子もなく頷いた。
「迷っているというより二人の意見が食い違ったまま平行線を走っているね。どちらかが妥協しない限りきっとそのままだろう」
「ふむ。そして特に急ぎはしない旅路というわけか、なるほど」
 女性は革のベルトに固定していた皮袋を覗き込む。アリスは何をするのかと興味本位に窺っていると、女性は皮袋の紐を無造作に解いて中身を近くのテーブルにぶちまけた。トリスもアリスも重い金属音をさせて次々と積みあがっていく様子に呆気に取られて言葉も出ない。
 それは大小様々な大きさと形をした貨幣。東アヴァロンを始めとした人類圏のものが勢ぞろいしていた。
 その金額は庶民が一度にお目にかかる機会などまず巡ってはこない、数十年は不自由なく過ごす事ができるほどのもの。周囲も突如出現した大金に騒然となる。
 ただ一人ぶちまけた本人は不満そうに眉をひそめて腕を組むだけだった。
「これだけあればわたしが大好物としているケーキをどれほど買い占めてようと尽きる事はないであろう。だが、これでも足りぬものなのか?」
「足りない? この金額で?」
 アリスとトリスは互いに顔を見合わせた。
 目の前に披露される貨幣の山はうまくやりくりすれば屋敷一軒を建てておつりが出るほどの金額。二人はそれでも足りないと言い張る彼女に結び付くものなど心当たりもなく見当すらつかなかった。
「これなら金額で買えるものなら大方買えると思うけど、これで何を?」
「うむ。単刀直入に言ってしまえば、これで馬車一式を買い占めて個人所有とするのだ」
 周辺の者たちが揺らいだ。思わず騒然となる者、彼女の発言に耳を疑うものなど様々な反応が辺りを埋め尽くす。
 女性は周囲を見渡して首をかしげ、トリスの方へ向き直った。トリスも例外ではなくお茶を濁すように苦笑いをしていたため、女性は視線を鋭くする。
「なんなのだこの空気は。わたしは滑稽な発言をした覚えはないぞ」
「いや、滑稽な発言も何も……」
「東アヴァロンではどうか知らないけれど、これが荷馬車の普通の相場」
 アリスは落ち着いた様子で硬貨を種類と金額別に並べ始め、その内の一束を女性の前に差し出した。積み上がった貨幣の中でも大きめのものが取りそろっていたが、単純な個数でも十分の一にも満たなかった。
 今度は女性の方が目を丸くし、目の前に積み上がる女性の全財産と比較してちっぽけな円柱をまじまじと見つめる。
「……馬車一式とはたったこれだけで購入できるものなのか?」
「むしろもう少し付け足せば飛竜すら個人所有できるほどだよ。一体誰が君に壮絶な勘違いさせるとんでもない発言をしたのかな?」
「あそこにいる無礼者だ」
 そう言って女性が指差したのは先程まで彼女が言い争っていた、やる気が全く見られない職員だった。同時に周囲の視線もその職員に注がれ、彼は表情を青くする。
「金額は提示してやったのだが、嘲笑と共に断られた」
「……ちょっと待っててくれ」
 トリスはアリスが積み上げた硬貨を掴むと、一直線にその職員の方へと足早に近づいていった。いつものようなやわらかな笑みを絶やさないままだったが、周囲のものがのけぞるほどの威圧感を放っていた。
「意外だ。温厚地心な男に見えたのだがわたしの勘違いであったか」
「意外だったのはこちらも同じ」
 アリスと女性達その他大勢が見つめる中、トリスはその職員に語りかけていた。言い争いや議論にも見えなかったが、職員は今にも卒倒しそうに頭を揺らしていた。周囲は盛り上がりを見せるがアリスと女性は淡々とした姿勢で成り行きを見守っていた。
 ほどなく職員がテーブルに突っ伏し、駅舎の中は歓声に包まれる。トリスは番号の記した札と貨幣の余りを女性に手渡した。女性は優雅に一礼するとそれらを受け取る。
「これが今日から君のものになる荷馬車だ。個人で乗合馬車すら営めるぐらいの大きさを選んだから特に不便はないと思うよ」
「うむ。そなたに多大なる感謝を」
 女性はテーブルの上に並べられた硬貨を再び皮袋に入れていく。すらっとした腕が動くたびに周囲の者たちはため息混じりに視線を指と硬貨に釘付けにする。
「この恩には報いたい。この礼と言ってはなんなのだが、そなた達を帝都とやらまで送ってやってもよい」
「ありがたい提案。けれど貴女にも荷馬車を買い占めてまで行かねばならない理由が目的地にあるはず。迷惑はかけられない」
 女性が行こうとしていた場所は帝都と方角が異なっていた。だから帝都を経由する事になれば大きく遠回りしてしまい、荷馬車を買い占めた意味が全くなくなってしまうとアリスは考えた。
 だが女性はそれを些細な事だとばかりにあっさりと首を横に振った。
「よい。行こうとしていた場所の順序が変わるだけの話な故、そなた達が心配するほどの大事ではない」
 女性は自分の荷物から手書きの手帳を取り出し、一箇所のページを開いて二人に見せた。二人も女性の手帳に視線を移す。
 そこに描かれていたのは手書きの人類圏地域の地図。簡略化されていながら要点は押さえられ、十分に地図としての機能を果たす出来だとアリスは素直に感心する。
 その中で無造作に書きなぐられていたのは人類圏の各地に点在する五つの丸印。その内二つは既にバツ印で上書きされ、傍らに細かな文章で詳細が書き記されていた。
「わたしはこの人類圏に点在する丸印を回っている。東アヴァロンにも二ヶ所あり、帝都を挟んだ反対側にも丸印はある故に、帝都へと向かっても良いのだ」
「んー、この丸印がある場所の共通点に心当たりがないんだけど、一体なんなの?」
「分からぬ」
 即答だった。それを当然のように断言されたためにアリス達は言葉の違和感に気付くのが若干遅れてしまった。もちろん直後に起こした反応は、驚愕で面食らう事だった。
 女性はそれを気にも留めない様子で続ける。
「この記録が何を意味するのかも分からぬし何が待ち受けておるのか見当もつかぬ。ただここを回るべきだと助言されているから回っておるだけだ」
 手記を丁寧にしまいながら肩をすくめてみせる女性だったが、この場でその発言がもたらす意味を真摯に受け止めていないのは明らかだった。
「どう思う?」
 アリスは自分だけで考える事にたまらなくなりトリスに顔を近づける。そして声を抑えて語りかけた。
 トリスもまた似たような感想を抱いていたらしく、深刻に悩んでいた。
「とてつもなく不安だ。正直なところ見ていられない」
「そう、貴方もやはりそう考える」
 アリスは一つ頷いて女性の前を横切って壁の地図の前に立った。そして先程まで女性が行こうとしていた丸の位置に指を差した。
 女性は意外なものを見る目でアリスを眺めるが、アリスは気にするそぶりを見せずに彼女へ振り向いた。
「便乗させてもらうのだからこちらは後でいい。そちらが構わなければ東アヴァロン内に記された二つの印の旅だけでも同行させてもらう」
「それはこちらとしてもありがたい提案なのだが、そなた達は良いのか?」
「こちらは急がない旅だから年単位でなければ構わない」
「俺は気ままな旅をしてるから行き先はどこでもいいかな。むしろこの程度で君の旅路を変更させるほどのお礼と思うには重過ぎるかな」
 アリスとトリスは同時に力強くうなづいた。女性もしばらく目を瞬かせていたが、顔をほころばせてうなづいた。
 トリスは何かにふと気付いたのか、声をあげて手をついた。
「そう言えばこれから旅を友にしようとしているのにお互いの自己紹介をしていなかったね。俺の名前は――」
「トリスであろう。そしてそなたはアリス。先程の会話はしっかりと耳にしていた故、詳細は後ほど落ち着いた場所で聞かせてもらいたい」
「――へえ」
 素直に関心の声を上げるトリス。アリスは彼女の提案に一つ頷いただけだった。
「同意。それで貴女の名は?」
「分からぬ」
 またしても断言されてしまった二人はどのような反応を示せばいいのか見当もつかず、お互いに顔を見合わせるだけしか出来なかった。
 それを承知の上なのか、女性は淡々と続ける。
「わたしが何者で何をすべきかなど全ては手帳に記した分しか把握できておらぬ。しかし自分なりに考えて一つの名前は思い浮かんでいる」
 女性は海のように濃い蒼に染まった長髪を手で流し、何者であろうと脅かす事の許されない誇りを伴って口を開いた。
「リアンノンと呼ぶが良い!」
 アリスの記憶が間違っていなければ、リアンノンとは英雄物語の一つで死者蘇生すら行える大神官の名前だ。純粋かつ清楚で女神の化身とも讃えられた存在の名は広く用いられてはいたが、目の前の女性は確かに名前負けしていない者と言えた。
 それでもアリスはトリスとリアンノン、それから自分を見比べて一言漏らさずにはいられなかった。
「前途多難」


続く

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