第一章

「――……」
 左右、それから上下を満遍なく見渡す。
 見慣れた天井。見慣れた壁。見慣れた勉強机。机の上には友人から借りた本が所狭しと並べられていて、床には未だに整理のついていないボードゲームが広がっている。
 そして今自分、源一成《みなもとかずなり》は布団で寝ている。
 目覚めて間もない一成でもそこが自分の部屋だと分かる。
「……夢?」
 寝起きのはずなのに心臓の鼓動が耳まで聞こえ、呼吸は全力疾走したように荒い。体からは汗が大量に出ていたのか寝巻きはぬれていて気持ちが悪かった。彼は目覚めが悪い方だったが、いつもの朝と比べるまでもなく意識は覚醒していた。
 もう一度部屋中を見渡してから机の引き出しから手鏡を持ち出す。寝巻きのボタンを外して自分の身体を調べてみるが、首の切断跡は痕跡すら残っていなかった。
 腕を左右に振り回して軽く跳躍もしてみる。首を前後左右に曲げてみても違和感何一つない。風邪もひいていない。いつも通りの自分がそこにはいる事を確認した。
「夢、か……そうか。そうだったんだ」
 あまりの馬鹿馬鹿しさに一成は思わず自虐気味に苦笑するしかなかった。
「よかった。あれが現実だったらマジで俺の人生終わってたしな……」
 一成は心の底から安堵すると体から緊張が抜けていき、もう一度布団に横になる。少女に斬られた首元に触れるとまだほのかに熱いような気がした。
(それにしてもあれは一体なんだったんだろうか)
 月下にたたずむ剣を持つ少女。
 見ほれるほど鋭い剣の一閃。
 生命を奪っていく冷たい感覚。
 夢にしてはどれも現実味がありすぎた。
 もちろん一成は彼女が行使してきた剣技を体験した事も見た事もなかった。そして想像力が豊かでないと思っていたため空想を浮かべたことも一度もない。そして当然だが少女にも見覚えが一切なかった。
 一成は原因を深く考えようとして――やめた。夢の中の出来事まで心配していたらいつまで経っても心の平穏が訪れそうにないと早々とけりをつけることにした。
 彼にとって肝心なのはどうしてそんな夢を見たのかではなく、一連の出来事が夢だった事実だった。
「よっし、やるぞー」
 一成にとってはこうして生きているだけでも十分すぎた。嬉しさのあまりに思わず小躍りしたくなるほど歓喜する。
 七時ちょうどをさして鳴り出す直前だった目覚まし時計のスイッチを止める。そして身支度を整えると食卓の前についた。朝食はベーコンエッグとご飯味噌汁におこうこが少々と小皿に盛られた肉じゃがだった。
 いただきます、と手を合わせてからベーコンエッグに箸をつける。一成はどちらかと言うと少食だったけど食事は好きな方だったので、塩加減が丁度いいうまみをもたらして口の中に味が広がっていく感触はたまらなかった。
「あ、かずちゃん。昨日はちゃんと戸締りしてくれてありがとうね。わたしそそっかしくてすぐに玄関のチェーンを付け忘れるから本当に助かるわ」
「まあ、用心はしとかないとね」
 小さな口でトーストをかじっている一成の母、源知代《みなみとともよ》に簡素に答る。真向かいに座る彼女は笑顔を絶やさないため、思わず見とれそうになり視線をそらす。
「最近ニュースで流れる事件っていったら悲惨なものばかりで怖いわ。近頃本当に物騒になったわね」
「一応この家には大人の男が数人いるんだから家にいる間は心配しなくていいって。それより母さんも買い物の時とか注意してよ」
「ふふ、かずちゃんはお母さん思いのいい子ね」
 一成は赤面をごまかすように口いっぱいにご飯をかき入れ、思いっきりむせる。
 源の家では食前でテレビをつけることがなく、黙々と食事をするか会話で弾む食卓になるかの二択しかない。たまに父親達が新聞や雑誌を片手に食を進める事はあるが、一成と知代は基本的に早々と食べてしまう方なので毎日顔を見合わせて食べていた。
 そこでふとある違和感に気付く。
(昨日家のチェーンをかけた……?)
 憶えがない。というより思い出そうとすると夢の惨劇しか浮かんでこなかった。
 それはまるで夢の出来事が本当にあった現実に上書されているようだった。頭をひねらせても結果は同じ。確かに鮮明に覚えていられるほど壮絶な夢だったのは認めるが、その後遺症で昨日の出来事まで忘れたとは認めたくなかった。
「なあ母さん。俺昨日なにしたか知ってる?」
 突拍子もない事とは分かっていたが、一成はとりあえず確認すればすぐに思い出すだろうと結論付けてうかがう。知代はきょとんとしながらもしばらく考え、やがて冗談だと受け取ったのか微笑みながら答えた。
「かずちゃん、昨日本屋めぐりしてくるって豪語して出かけたじゃない。忘れたの?」
「む」
 どうやらそこまでは夢も現実も変わりない事にとりあえずほっとする。それを気にせずとも夜は続ける。
「でも夜ご飯いらないって電話がかかってきた時は驚いちゃった。でもごめんね、あまりに眠たかったから先に寝ちゃったの。だからいつ帰ってきたかは分からないのよ」
「そ、そうだったっけ。ごめん遅く帰ってきて」
 頭を下げる一成を見て知代は鈴を転がすような心地よい笑いを浮かべた。
「大丈夫よ。こうして無事に帰ってきてくれたんだもの。それだけでも十分嬉しいわ」
「そうか……」
 知代の満面の笑顔を見て、一成は心底から安堵の表情がでた。もちろん彼自身殺されるなどという悪夢を回避できた事もそうだったが、こうして自分を心配してくれる人がいてくれる事の方が何より嬉しかった。
(よかった。あんなものが現実じゃなくて)
 思わず口に出しそうになったので一成は味噌汁をすすってごまかす。目の前にいる日常の象徴にわざわざ不安な気持ちを抱かせたくなった。
 知代は頬に手を当ててにこやかに語りかける。
「かずちゃん、それで昨日の収穫は何かあったの?」
「収穫? ああ、本屋めぐりか。結構あったけれど半分近くしか手に入らなかったな」
 多分ね、とはさすがに言えなかった。夢の中では話したとおりだが実際には収穫なしで意気消沈しながら帰宅したかもしれないのだ。最も悪夢では購入した本を全て真っ二つにされたのでどちらにしても収穫無しも同然ではあるが。
 知代は心底驚いたように口を大きく広げた。それでもその口の大きさだとハンバーガーよりポテトの方が似合うんだろうな、などと一成は心の中で苦笑する。
「まあ、あれだけ長く外に出てたのに?」
「うん、まあ中には絶版したものもあるし、そう簡単に見つかるとは思ってないかな。また今度時間が経った時に出向いてみるよ。そうしたら新たな発見があるかもしれないし」
「うん、がんばってね」
 知代は激励するようにうなづく。一成は嬉しさがこみ上げてくるのを実感する。
「それとかずちゃん、昨日の着替えが脱衣籠の中にないんだけれど、どこに脱いだの?」
「えっ? でもバスタオルは脱衣籠の中にあったし、だったら服もちゃんと入れておいたはずだけれど」
 困ったように頬に手を当てる知代に一成は素直に答えた。
 これは洗面所に足を運んだ時に確認済みだった。現実ではどうやら帰宅後に入浴も済ませていたようだ。その証拠に手桶や椅子が一成独特の積み方をしていて、体拭きタオルもなくて下着も着替えられていた。例によって覚えは全くなかった。
「困ったわねぇ。今日は掃除の日だし、探してみるわね」
「頼むよ」
 昨日の自分に苦笑しながら一成は茶碗に残った最後の米粒を口に運び、ご馳走様と手を再び合わせる。知代がお粗末さまでしたと丁寧に返事をしたのを聞き、食器などを台所に運んだ。
 一成は歯磨きを済ませた後、自室に戻って鞄を手に出かけようとしつつ中を見渡す。十数年間を共に過ごして自分の色に染まった部屋。どこにも変わった点は見られない。
「それじゃあ俺は先に行くよ。母さんも仕事がんばって」
「ええもちろんよ。かずちゃんもがんばってね」
 一成は知代が笑顔でお見送りをしてくれたので手を振って答え、いつものように投稿を始めた。
 昨日購入して夢では一刀両断されて使い物にならなくなった本がどこにも見当たらなかった事に疑問を抱きながらも。


 入学式から一週間も経てば他人だらけだったクラスの中でも知り合いが出来るものなんだな、と一成はしみじみ思いながら弁当をつつく。一人で静かに昼食を進めるのも悪くはなかったが、やはり寂しさを感じずにはいられなくなったので一緒に食べる事にしていた。
「それでねかずちゃん。その敵側のエースパイロットがものすごく強いのよ」
 今日の主題は最近放送しているアニメの一つについて。一成も一応見ていたので退屈する事無くクラスメイト、長尾愛《ながおあい》の主張に耳を傾けていた。
「しかもうちが好きな根っからの職業軍人キャラでさ。偶然にパイロットになった少女を追い詰めていくのよね。それがはらはらどきどきでさ」
 身振り手振りで話す長尾の仕草を見ているだけでも一成は退屈しない。彼にとっては静寂の中黙々としゃべる催眠術状態の授業よりもよほど面白かった。
「でも上官である将軍って無能っぽくないか? なんだか一ヵ月後ぐらいには無駄死にしそうな気がするんだが」
「んー。うちとしては悲しいけど、そうなる定めなのかもしれないね。監督にはキャラクターよりストーリーをぜひ重視してほしいよ」
 一成がある程度意見を挟む事もあり会話は更に白熱する。既に食い違いによる衝突も起きていて、その時はお互いに相手を論破しようとやっきになる。そのおかげで現在までに一成がクラスメイトで一番語り合っている相手は長尾だろう。
「彼はそれでも任務を全うする。主人公達に自分の生き様を見せて散っていくと予想」
 一成たちが囲む机の主、大内《おおうち》如月《きさらぎ》が本とおむすびを片手ずつに持ちながらつぶやく。話に参加しているのはこの三人で、他のクラスメイト達は別の話の輪を形成していた。
「なんでキサラは毎日おにぎりばっかなの?」
 長尾の何気ない質問に大内は返事の代わりに本の背表紙を見せる。それでも決して本から視線を離そうとはしなかった。
 長尾は首を傾げつつ眉をひそめる。
「それだったらパンでもいいのに。具を変えたって飽きて――」
「おにぎりじゃない。おむすび」
 大内は長尾の言葉に釘を刺しつつピアニストのような繊細な指でページをめくった。その姿は随分と絵になっていると一成は毎日抱く感想を思い浮かべる。
「なんでサンドイッチとかにしないのよ。ここの購買結構品揃えいい方なのにさ」
「個人的嗜好」
 大内の読む本の背表紙には事件簿と書かれている。どうやら一昔前の世界的に有名な推理小説らしいく、一成と長尾もその名前は知っていた。
 読書をしつつおむすびを口に運ぶ大内への追求をあきらめた長男は肩をすくめる。
「かずちゃんはキサラを入学式の前から知ってたみたいだけど、どこで知り合ったの?」
「入学試験の時に俺の席は大内の後ろだったんでね。その時に知り合った」
「なんだ。塾で知り合いだったってわけじゃなかったんだ。昔からきさらがこんな感じだったのか知りたかったんだけどなー」
 失望を隠そうともせずにため息を漏らす長尾に一成は思わず眉をひそめた。
「でも入学試験の時もこんな感じだったぞ」
 ゆで卵を箸で突き刺しながら口調を鋭くしながら主張する一成。長尾は興味深げにうなづきながら身を乗り出して一成に迫る。一成はある一点に視線が釘付けになりそうになり、自分に叱咤しつつ思わず顔を振って正気を維持する。
「いやさ、入学試験の時って最終確認みたいな感じで教科書とか参考書読んだり、落ち着こうと深呼吸するって事はあるよな。だけど大内は休み時間中ずっとハードカバー本読んでたんだよ。もちろん昼休み中も」
「随分とマイペースだったのね」
「そのおかげなのか誰よりも印象に残ったしこっちも受験に緊張してたのが莫迦らしく思えたぐらいだ。赤の他人同士だったから無言でいようかも思ったけど、興味惹かれたんで会話を少ししたかな」
 長尾はうなづきながら一成の弁当から唐揚げを口に入れる。その代わりにソーセージを彼の弁当に入れた。あまりに自然な動きだったために一成は指摘する事を忘れていた。
「ふーん。高校受験っていう人生の転換点でもこんな感じだなんて結構うらやましい性格してるわよね」
「初っ端から男子に声をかける度胸持った女子生徒が言っても説得力ないな」
「あはは。うちの好きなアニメをストーリーものとして見てる女子がいないっぽかったところでかずちゃん達がその会話してたからつい、ね」
 入学式当日、入学試験の縁もあって会話を交わしていた所に声をかけてきた長尾に一成は心底驚かされた。しかもその第一声は、
「甘い、甘いよそこの二人。そのシーンをそう結論付けるなんて駅前の人気ケーキ屋の極上ショートケーキよりも甘いよ!」
 である。中学時代女子との関係が希薄だったからなどと生易しい領域では説明できない何かをその女子生徒から一成は感じ取った。
 長尾は今日までの会話で一人称が『うち』である理由、大内の呼び名が『キサラ』な理由もアニメの影響だと断言していた。よほどアニメには思い入れがあるんだろうと一成はしみじみと感じてしまう。
 長尾はうんざりしたようにこめかみに手を当てた。
「今日なんて女子の輪に入って好きな歌手とか俳優とかの話題で盛り上がる夢見ちゃってさ。話の内容がもうちんぷんかんぷんで全然分からなかったよ」
「それは気の毒に。さぞかし面白い話ができたんじゃないか?」
「冗談、夢の中までうんざりしてたらたまったもんじゃないって」
 その仕草があまりにも自然だったために一成は真剣に頭痛を疑いそうになる。
「夢の中での気苦労、か。実は俺も今日とんでもない夢を見てさ」
 一成も今朝見た夢を思い返して言葉の口調はため息混じりになっていた。長尾は再び身を乗り出して一成に少し近づく。
「へー。面白そうじゃん。聞かせて聞かせて」
「よし、聞いて驚くなよ」
 その反応に気をよくした一成は調子のいい笑いを浮かべて胸を張りながら断言した。
「なんと俺は昨日殺されたんだ」
 静寂が辺りを包む。
 ふと二人の反応を見た一成の自慢げな表情が若干こわばる。聞いているはずの大内は興味なさそうに本から目を離さず、興味深げに聞いていた長尾は目を丸くしているた。
「……その反応は一体なんだ?」
「ず、随分と過程をはしょってるし自慢するような事じゃないと思うけれど……」
「降参を勧める意図が不明」
 一成は苦笑いを浮かべる長尾と冷淡につぶやく大内に文句を言いたくなる。だがその様子を見た長尾が面白そうににやにやと笑みを浮かべたので蓋をして心の深くに沈めた。
「しかし英字新聞も主題が一番前に来る。詳細な説明を要求」
「こうキサラも言ってる事だし、もちろんちゃんと説明してくれるんだよね?」
「当たり前だろ。現代文の設問だって始めの段落で結論出てそれから説明、俺もその手順に従うまでさ」
 一成がふと机の上をうかがうと既に長尾の弁当箱は空になっていた。どうやら丁度食事を終えたようで、手を合わせてこちそうさまとつぶやいていた。大内も既に終わらせていて、残ったのはどうやら自分だけらしいと気づいた。
 一成は咳払いを一つした後に事細かに昨日の事を話した。長尾はその間口を挟まずに黙って耳をたて、大内の本を読む速度も心なしか遅くなっていた。
「ふーん。美少女剣士がかずちゃんを殺害ねー。随分とうらやましいじゃないの」
 十分程度の話が終わった直後、長尾はからかうように肘で一成を小突く。眉間にしわを寄せる一成だったが、長尾の行為にはまんざらでもない様子だった。
「莫迦。殺される身にもなってみろ。アイロンを直に押し付けられたみたいな熱さの後に冷蔵庫の中で体を冷やしていくみたいな感覚とか、もうリアルでたまらなかったんだぞ。あんな夢なんて二度とごめんだ」
「でもそんな壮絶な夢を起きても事細かに覚えてるって凄いよね。うちだったら二度寝して一刻も早く忘れたいよ」
「あんなのは忘れたくても忘れられない」
 一成はごちそうさまと一言述べて静かに箸をおく。苦笑を浮かべようとしても顔が引きつるばかりだった。
「なにしろ夢が現実を凌駕してて、昨日本当はなにをしてたのかを全く思い出せないほどなんだからな」
 一成は夢が強烈過ぎて現実を侵食している感覚にとらわれていた。本当の自身はなにをしていてなにを考えていたのか全く分からず、恐怖感をあおる。
 それはまるで今送っている時間が夢で、実際の自分はとっくに死んでいるのではないかとまで疑ってしまうほどだった。
 しばらく暗い表情で視線をそらしていた一成だったが、ようやく長尾の表情が曇っている事に気付いた。彼は不安をごまかすように手振りでごまかす。
「すまん。すこし暗く語りすぎたか?」
「ごまかそうったって無駄だよかずちゃん。それちょっとまずいんじゃないの?」
 長尾は深刻な面持ちで一成を一瞥する。
「そりゃあ確かに現実としか思えないほどリアルな夢ってのは確かにあるけど、さすがに昨日の事まで思い出せなくなるほど衝撃的なものなんて聞いた事がないよ」
「どうやら夢の途中までは現実と一緒らしいんだが、どのへんから夢独自のものなのか俺にはさっぱりなんだよな」
 二人して腕を組みうなる様子を大内はお茶をすすりながら見物する。やがて興味もうせたのか、再び視線を本に戻した。
 やがて長尾は夏の太陽のような笑みで親指を立てた。本人は解決案を閃いたようだったが、一成に嫌な予感が一瞬よぎる。
「よしっ、ならこのやさしいお姉さんが君の悩みを万事解決しようじゃないか」
「誰が優しいお姉さんだ」
「こんな事もあろうかとこんなものを用意してみたよ!」
 長尾は一成のつぶやきを無視しつつ大内の鞄をあさり、中から一冊の本を取り出した。それは縮尺が大きい地区道路地図だった。
「持ってきたのはおまえじゃないだろ。ていうかなんで大内それ持ってるんだ?」
「あまいねかずちゃん。肝心なのはなぜじゃなくてそれがある事実だよ」
 諭すように指を振る長尾の頭にハリセンをぶつけたくなった一成だったがなんとか堪える。彼女はそれを大内の机の上に広げ、学校沿線を指でしなやかに差す。
「ここがうちの学校で、このへんがかずちゃんが昨日言ってた古本街でしょう。ここに行ったんだよね」
「ああ。この後電車を使って家の最寄駅で降りた。それで俺が夢の中で殺された位置が……ここだな」
 一成は指を走らせつつページをめくり、公園と最後に付いた名詞の部分で止める。
「へえ、わりと大きな公園じゃない。滑り台ブランコ砂場ぐらいな公園しか近所にないうちにとってはうらやましい環境だよ」
「そうは言うが俺が幼い時にはなかった出来たてのほかほかな公園だから、小学校まではあんまり恩恵にはあずかれなかったな」
「でもこれだけかずちゃんの自宅と目と鼻の先にあるんだったら、何かあったら早朝には話題になってないとおかしいよ。近所付き合いは良い方なんでしょう?」
 一成は母親の世間話を思い返して肯定する。
「だったら話は簡単。かずちゃんは何事もなく家に帰った。それでご飯食べて風呂入って寝た! 万事解決でしょう」
「最終結論のように言われたってな、その詳細を鮮明どころか磨耗した状態ですら思い出せないのが問題なんだろ」
「あ、そうか」
 再び行き詰った二人はまるで先ほどを再現したように腕を組んでうなりだす。埒が明かないとは分かっていたが、それでも悩まずに入られなかった。
「記憶の再現には追体験が確実。その公園に再度赴く事を推奨」
 沈黙を破ったのは大内のつぶやきだった。一成と長尾が声をあげるのも気にせずに本のページをめくる。読み進める速度が早いのか、冒頭部分が開かれていた本はいつの間にか中間付近で見開かれていた。
「そ、そうね。それよ! うちもそれがやっぱ一番いいと思うわ。英単語も何度も体験して覚えるものだし、かずちゃんもそうしたらどうかな?」
「大内に助け舟出されて助かったな長尾。それが某豪華客船のごとく沈没するなんて思わないのか?」
「その時はその時よ!」
 長尾は真顔で言い切ったので、冗談交じりで述べた一成は若干後悔する。
 しかし良い意見を聞いたとは確信できた。今日の放課後は部活動の体験入部をしようと心に決めていたが、背に腹は変えられないと断念する事にした。
 その時、丁度昼休みの終了を知らせる予鈴が鳴った。一成がふと机の上をうかがうと、大内は既に机の上に勉強道具一式を並べ始めていた。
「ん、とりあえず今日はこのへんでお開きね。毎日の事だけど有意義な時間だったわ」
「それは俺も同意見だな」
「同じく」
 三人が深く話すようになってからまだ一週間。一成はその短時間で毎日の事と断言できるようになった長尾が正直うらやましかった。自分も早くこれが当たり前の事だって思えるようになりたいとかたく誓う。
 一成は立ち上がって自分の席に向かおうとして、
「あ、かずちゃん。最後に一つだけ意見言わせて」
「なんだ?」
「明日は餃子をリクエストするわ。よろしくね」
 最後の意見で力が抜け、倒れそうになってしまった。


 まだ部活動は仮入部期間中なので顔を見せなくとも何も言われない。そもそも一成は中学時代と同じ事をやろうか別の道を選ぶか大いに悩んでいたため、仮入部してる部に返事を渋ってる状態でもあった。心の片隅で謝罪しつつも口には出さない一成であった。
 以上の理由で一成は授業終了と同時に学校を出る事ができ、昨日めぐったはずの本屋をまた歩き回った。本を購入したと記憶している個人店舗の店主に話をうかがってみたところ、彼は確かに夢と同じ本を購入していったとの事だった。
 結局全店舗を回ってみたが答えは夢と同じだった。しかし落胆はせずに次の手がかりを求めるべく電車に乗り込む。
 窓から見える空は既に橙色に染まっていた。うっすらとかかる雲も、目の前に広がる住宅も、目の前に広がる全ての世界が同じように染まっていたため、一成は思わず心惹かれた。まるで絵画の一枚だ、と率直な感想を持つ。
「夜、か」
 また日が暮れ、夜が訪れる。
 あの月の夜が再び――、
「なにを莫迦な」
 夢の出来事が頭に浮かんだ一成は振り払うように頭を左右に振った。
 二度もあのようなな文字通り死ぬ思いは夢の中でもしたくなかった。そのためにも夢で上書された昨日の出来事を思い出し、夢に上書しなくてはならなかった。
 電車から降りた一成は駅員にも念のためにうかがってみたが、返ってきた答えは一成が望んでいたものではなかった。最も一成も通行人の顔を全く覚えない方だったので期待もしてなかった。
 家から最寄り駅の間で寄り道をする事はない。よって一成の足取りは駅から家まで掴めない事になる。
「つまり、後は俺が思い出す以外道はないって事か」
 それが一番困難な気がしないでもないんだがな、と一成は苦笑しながら岐路につく。
 普段使用する通学路をいつもどおり歩いていき、夢の中で奇妙な物音を聞いた所までたどり着いた。ここで公園に向かうかこのまま自宅へ帰るか判断に悩んだ末、結局コイントスで決める事にする。その結果、一成は公園の方角に足を向けた。
 その公園は閉門時間が区切られているだけあって遊具や広場はおろか林道や人工の池などもあり、周辺住民のちょっとした憩いの場になっている。春夏秋冬全ての季節で趣のある構造になっていて、位置関係から抜け道にもなっていたために人通りは絶えない。
 そうして一成は悪夢で殺された正門前に立っていた。辺りをうかがっても朱色の水溜りのあとは一切みられなかった。念のために付近に住んでいると思われる主婦に話を聞いて今朝何も変わった事はなかったと確かめた。
 それ以上この場所にいると更に凄惨な出来事を思い出しそうで気持ち悪くなる。一成は抱いた考えを振り払って公園の中に入ってしまう事にした。
 空の明かりは木々の葉にさえぎられて淡くて暗い。電灯も夜間の運用を考えていないために少なく、既にほとんどの人が帰宅をし始めていた。
 夢の中でも入っていない公園に踏み込んだのは、園内で起こっていたと思われる物音が原因だと考えたためだ。あの夢が一切関係のないもので、そのために一日の記憶が消し飛んだとはどうしても思いたくなかった。
 結局いくつも可能性は浮かんできたものの決定的な閃きが生まれる事はなかった。一成は公園内を徘徊し、舗装された道を挟んだ遊具施設の反対側にある子供達が普段サッカーをするほどの広場にたどり着く。
(そういえば鬼ごっこで閉門時間を過ぎてもアイツを発見できなかったな)
 何度かここで遊んだ記憶があったため鮮明に思い出していく。中学生になってからは頻度も格段に落ち、このようにゆっくりと見歩く事は最近なかったために、今日の徘徊はとても新鮮でもあった。
「……ぁ」
 しかし、一成はその広場を一目見ただけで後ろに下がってしまった。
 視界に写る光景は彼の記憶の中にある広場そのもの。もちろん夢の中で聞いた破壊の形跡はどこにも見当たらない。何事もなかったかのように平穏で、まだ数人ほどサッカーをやっている少年達もいる。
 しかし、コレは違う。
 一成の中で警鐘が鳴り響き、記憶と実際の光景が全く違うと嫌でも認識させられる。
(こ、こんなの……俺の遊んだ公園じゃない。俺の知ってる広場じゃない)
 一成には広場の異常をどのように表現して良いのか分からなかった。ただその場にいるだけで生きた心地がせずに寒気がする。必死になって震える腕を押さえてようやく彼は一つの的確な表現にたどり着いた。
 死地。そこはまさしく生命がいない死地と化していた。
 この場所に一秒たりとも長く居たくなかった一成はその場から逃げ出した。生まれて始めての全力逃走だった。
「なん、なんだアレは一体っ!」
 一成の左右を嘘のように速く風景が流れていく。時折通り過ぎる人は一成を見て怪訝な表情を浮かべるが、彼はお構いなしに全力疾走を続ける。
 もはや一成にとって昨日の記憶はどうでもよかった。なぜあの広場があのようになったのか分かりたくもなかった。そしてその結果あの場所にいる者達がどうなろうと一切関わりたくなかった。
 必死になって脚を動かしても恐怖は晴れなかった。酸素が足りなくなり息が詰まっても構うことなく出口を目指す。元来た門が目に飛び込んできても全く安心できず、それから門を抜けるまでの数秒が数時間にも数日にも長く感じた。
「ぐはっ――はあー……っ」
 ようやく門を何事もなく通過して安心したからか、一成に今までの疲れがどっと押し寄せる。彼は思わず柵に手をかけ、深呼吸を一回、二回、三回と行う。全力疾走で体が火照っているはずなのに寒気しか感じられない。
 一成はようやく落ち着きを取り戻し始めて夜空を見渡す。既に太陽は沈み夜になっている。時計を確認すると日没と夕飯時との丁度中間辺りだった。
「はあ」
 消去された昨日の記憶、代わりに鮮明に残る惨殺の悪夢、そして広場での出来事。一秒でも速くこの事を忘れて二度とここには近づかないようにしよう。そして絶対に何事も知らない今までどおりの平穏な生活を送ろう。一成は今までにないほど心に固く誓った。
 一成は棒になりそうだった脚をなんとか動かして帰路について、
「どこへ行くの?」
 突然、澄んだ声に呼び止められた。
 体中が凍る。心臓が口から飛び出そうになるほど高鳴る。
 それは一成が決して聞き間違えられない声、忘れたくても忘れられない悪夢。
 一成は意を決して背けられない現実に振り返った。
 河のように流れる長髪。深い色を秘めて輝く瞳。華奢な身体。玲瓏な顔。そして背負った状態でも見える禍々しい紋様が刻まれた剣。
 雲が流れてかげり一つもない月下の中。門壁の上に悪夢がたたずんでいた。
「――嘘だ」
 それは悪夢の完全なる再現だった。唯一つ違うのは刀を納めているか構えているかの違いだけだったが一成は全く気付かない。
 一成は目の前の事実を否定するのに精一杯だった。
(アレは夢だ。アレは現実じゃなかったんだ。現に俺は息をしている、生きているんだ。じゃあこれはなにかの冗談か? 夢か? そうだと言ってくれ。むしろ言え!)
 だが服の感触も春先の肌寒さも今が現実だと証明している。一成は毛の二三本ほど抜き取って確かめようと思ったが、体がすくみあがったように動かなかった。脚も笑っていて一歩も動く事はできず、口の中は乾いて声が出せない。正に何も出来ない状態だった。
 少女は若干不機嫌な様子で一成を睨むと門壁から飛び降り、猫のようにしなやかに着地した。そして一成の方へと歩み寄り目の前で立ち止まり、
「……不本意ね。まさかおまえが今こうして大地を踏みしめているだなんて」
 いきなり棘のある口調で言葉を投げかけた。
 文句一つも言えずに口を開閉させる一成を尻目に彼女は見回し、深いため息をつく。
「もしかしてこれもわたしに与えられた試練だとでも言うの? 勘弁してよ……」
 何の事を言っているのか見当もつかない一成だったが、目の前の少女は愚痴を散々口からこぼすだけで説明する気はないようだった。
「あんた、一体なんなん――」
「おまえにしゃべる権利はない。おまえが下、わたしが上よ」
 若干の余裕が生まれて発言をした一成だったが、少女の一睨みで黙らされる。蛇に睨まれた蛙の気持ちを始めて思い知らされた瞬間だった。
 やがて少女は愚痴と不満を飲み込んで一成に視線を送る。とても一成が予想する少女の年齢からは考えられないほど冷ややかなものだった。それで更に心も体も凍てついた錯覚に陥る。
「本当だったらおまえごときにくれてやる言葉じゃあないけれど、よく聞きなさい」
 少女は頭一つから二つほど高かった一成の背が気に入らなかったのか、襟首を掴んで引き下げる。力づくではなかったが一成はなすすべなく少女の目線より下になった。
「おまえはわたしに従わなくちゃならないの。なぜなら、」
 そして少女はさもつまらなそうに、だが絶対に曲がる事のないほどはっきりした口調で言い切った。
「おまえはわたしの手で殺したのだから」


「なん、だと?」
 しばらく茫然自失していた一成だったがようやく口を開く事が出来た。数時間ほど沈黙が続いたと彼は感じていたが、実際には三分も経過していない。
 殺した張本人はなおも続ける。
「もちろん覚えているんでしょうね。昨日の深夜におまえはここでわたしに殺された。首から大量の血を噴き出してそこに倒れて、心臓に剣をつきたてられて死んだ。思い出せないんだったら詳しく説明してやってもいいけど」
 説明されなくてもその光景がフラッシュバックするかのように脳裏によみがえる。青ざめていく一成の様子を少女は肯定と受け止める。
「そう、なら話は簡単ね。あの後そうして生き返ったのはわたしのおかげなんだから光栄に思う事ね。本当だったらおまえみたいな一般人をわたし自身の手で殺してやってもこうなる事なんてめったにないんだから」
 恨まれているような口調の意図が読み取れない一成は返事をしなかった。ただ彼女の深い瞳に吸い込まれるかのように視線をそらす事は出来なかった。
「こんなところで説明するのもなんだし、ついてきなさい」
 少女は困惑する一成の意向を無視し、襟首を掴んだまま早足で歩き出す。一成は前のめりの体勢になっていたのに加えて歩幅の違いもあったので、自然と歩調は速く細かくなってしまう。思わず愚痴をこぼしたくなってくる。
 数分ほど歩き、二人は近所の喫茶店に到着する。扉を開けると鈴の音が軽やかに鳴り響き、ウェイトレスが一礼しながら明るく丁寧に声をかける。
「いらっしゃいませ。お二人様ですね。すぐに席にご案内いたします」
「必要ないわ。連れが既に席を取ってくれてるし」
 少女は彼女の横を颯爽と通り過ぎ、一つのテーブルに当たり前のように着席する。既にテーブルでは女性が一人紅茶を飲んでいて、少女が着席するとカップを置いて慇懃に一礼する。一成はとりあえず女性の特徴をうかがおうとしたところで少女によって強引に女性の横に座らされた。
 少女はメニューを持ってきたウェイターにアイスクリームを注文する。どうやら一成には自腹でも購買権はないようで、メニューを下げさせる。
 それでも文句一つ言わずに一成は二人のうちどちらかが口を開けるのを待っていたが、少女は時計を見たり厨房の方を覗いたりとそわそわするだけで何も語ろうとしない。女性も女性で一成の事を完全に無視して優雅にカップを口元に運ぶ。とりあえず一成に唯一つ用意された氷入りの水を少しずつ飲んで時間を過ごした。
 やがてウェイターがアイスを乗せた皿を少女の前に置いた。彼女は海から現れる日の出のように表情を輝かせ、スプーンですくったアイスをゆっくりと口に運んだ。そしてこの世にこれ以上の至福無し、と断言するように満足感に満ちた笑みを浮かべる。
「こうなってしまったらお嬢様は万に一つも語る事はありません」
 しばらく少女の様子に呆然としていた一成にようやく女性が語りかける。彼女は飲む音が全く聞こえてこないほど上品に紅茶を飲み、流し目を一成に送った。
「うかがいますが貴方はお嬢様からどれほどお聞きになりましたか?」
「どれぐらい聞いたかって……俺が彼女に殺されて、今こうしているのは自分のおかげだとしか」
「そうですか。それでは全く知らないも同然のようですね」
 女性は一成の返事に不満を持ったのか若干失望の色を見せた。ただそれは一瞬の事ですぐに表情をなくす。
「ではお話いたしましょう。貴方の存在理由、私達の在り方、そしてお嬢様方の事を」
 彼女は一成に視線すら向けずに淡々と語り始めた。

「まず、我々は夜の住人と呼ばれる者たちです」
「明確な名詞が存在していないため、便宜上そのように説明させていただきます。この方々は貴方達人間のような生命体とは違い、昼に休み夜に行動する者達です。夜行性の生命体との決定的な違いは、昼間を過ごす事ができない所なのです」
「例をあげるならば吸血鬼《ヴァンパイア》などでしょうが、お嬢様はそのような無粋な種族ではございません。このお方は冥府の一族、と呼ばれる方々の一人です」
「冥府と申しましても文字通り死後の世界に住んでいるのではなく、死を操作する能力を持ち合わせているために他の住人達がそのように呼称しているだけです。冥府の一族方は他者の生を略奪する事で自身の力を増し、逆に死者に生を与える事で支配下に置いて自身の勢力を広げていくのです」
「生を与える方法はいくつかあり、まず一つが冥府の一族に血液などを与えられる場合です。鮮血の契約と呼ばれるそれは冥府の一族と臣下を結ぶ最も一般的なもので、私を含めてほとんどの臣下はこの契約です」
「次に一族自身の生命の欠片を恵まれる場合です。生命の契約と呼ばれるこの手法は一族と文字通り魂まで結びつくため、大変名誉な事とされております。一族とその契約者は死をもってしても切り離す事はできず、全てを分かち合います」
「しかし……時に一族の力を奪おうとする者も現れます」
「それが略奪の契約。一族の生命の欠片を掠め取り、自身の魂に組み込むことで存在を向上させるものです。一族の者が能力を行使した場合わずかに生命が漏れ出す事もあり、それがたまたま殺した相手に作用する場合もこれに該当します。そうなった場合は生命の契約を結んだのと同等の絆が生まれてしまいます」
「略奪の契約を結んだ場合、生命の契約と同じように自らのそばに置くか自らの責任をもって断罪するかのどちらかを選ぶ事になります。生命を分ける事は自身の存在そのものを分ける事に他ならないのですから、臣下にせぬ限り不利益しか生み出しません」
「私は一切納得できませんが、貴方はこの契約をお嬢様と結んだのです」
「契約を断ち切る事は不可能です。契約を破棄してしまえば身体から生命力は失われ、死を逃れる事はできませんから」
「従いまして貴方の生命はもはやお嬢様のものであり、貴方は今お嬢様につき従う事のみが存在理由なのです。ご理解いただけましたか?」

 しばらくの間、静寂がテーブルの周りを包み込んだ。
 二の句がつげない一成。アイスを口に運んで至福の時を過ごす少女。さも当然の事のように淡々と語る女性。三者三様の反応は周りの人間から見れば面白いかもしれないが、当事者達にとってはとても笑い事ではなかった。
「……理解はできても納得なんてできるか」
 一成がようやく口に出来た言葉には隠しきれない怒気をはらんでいた。
「だったらなんで俺は殺されなきゃならなかったんだ」
 一成に言わせれば自分は一人では何もできない一般人という認識である。身の回りの世話や身辺警護はもちろん出来ない。事情をなにも知らないから音だけで判断しようと冥府の一族とやらが表沙汰になる事はは決してない。
 故に、彼にとっては殺された理由が何一つなかった。
「それは冥府の一族を取り巻く特殊な事情が関係しています。貴方が遭遇した出来事もその結果もたらされた事柄も」
 女性は憤る一成にわずかながらうんざりして説明を続ける。
「生命を取得し自身の力を増していく冥府の一族とて生命体。いずれ迎える生命の限界、すなわち寿命には打ち勝つ事はできません。年月を経ていくうちに生命を維持するために必要となる他者の生命は増していくのです。そのようになった場合、速やかに幕を下ろす事が美徳とされております」
「えっ? 寿命なんてあったんだ」
 冥府という単語から連想して、生命を略奪する限り半永久的に生きられると考えていた一成にとってその説明は意外だった。彼は思わず声に出してしまったが、女性は気にした様子を見せない。
「冥府の一族にも王がおります。臣下は誰よりも頼もしく一族の誰よりも生命が力強い方なのですが、王とて寿命の例外ではありません。そこで冥府の一族では世代交代の際に頂点に君臨するものとして最も生命力の在る者を選ぶのです。すなわち他の者達を自らの臣下として勢力を増し、時には一族同士で争いを行います。そして、」
 女性は不意に紅茶のカップを置き、今まで少女の方だけに向けられていた顔と体を動かして一成を見据えた。
「先の王を越えた時にその方は冥府の一族の頂点、冥王となるのです」
 女性は今までになく真摯な顔だった。自らが従う少女が偉大なる一族の系譜だと確信を、そして一族に使える自分自身に誇りを持っているように。
 そしてそれをいまいち納得できていない一成に対して憤りを見せつつも、女性はなお粛々と言葉を並べる。
「無論冥府の一族に従うのに必ず契約が必要となるわけではありません。中には自ら彼の方々に己をささげる場合もあります。そして人間とて例外ではありません」
「つまり俺が冥府の一族ってのに忠誠を誓ってる人物かもしれないから殺した、と言いたいわけか」
「おっしゃるとおりです」
「マジかよ……」
 一成はぼやきながら頭を手で抑えた。
 ふと向かい側に座る少女をうかがうと、空になった皿を物足りなそうにスプーンで軽く叩いていた。女性に向けて何か促しているようだったが彼女は首を軽く振って拒否を示した。どうやら少女の言う事全てに賛同するだけではないらしく、一成は少し安心する。
「お分かりですね。ただでさえ略奪の契約は一族にとって屈辱的なものなのですから、一族が己の全てをかけて戦いを行う中、それがどれほどの意味を持つのか」
「それってまさかとは思うけど……」
 自分の予想とは違っててくれと心底から願う一成だったが、
「奪われた生命を奪還する、すなわち貴方を殺すのですよ」
 女性は冷酷なほど平淡な口調で結論を提示した。
 一成は自身の背筋が凍りつくのを実感する。今すぐ逃げたかったが体はその場から動いてくれなかった。
 もちろん目の前にいる少女の実力は身をもって思い知らされていて、下手に動けば即座に殺される可能性が高い事もある。女性が何者でどれほどの手練かは知る由もないが、常識離れした実力の持ち主なんだろう。
 だがそれよりも彼の動きを凍りつかせていたのは一成を見つめる少女の表情だった。子供のように無邪気でありながらどこか妖艶に笑みを絶やさない様子は恐怖の対象でしかなかった。


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  2008年10月3日


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