プロローグ

 一学期終了間近。情けない話だが、俺は見事に数学で赤点を取り、そして追試確定の事実に唖然とした。
 テスト期間が終了しても、どうにかして挽回《ばんかい》しようと問題集を片手に勉強にいそしむ。何しろ終業式は目の前に迫っていて、へたをすれば夏休みに補習が食い込むという理不尽な目に遭う事になる。それだけは避けたかった。
 はっきり言ってしまえば、数学なんて分かりづらい。日常生活では絶対に使わない事をなんでこうも一生懸命勉強しなければいけないのか、俺には全くと言っていいほど理解できなかった。けれど義務教育はとっくに終わっているので文句は言えないだろう。
「やりたくなければやらなければいいじゃないの」
 だと言うのに聞こえてきたのは高低差の少ない、それでも少女の可愛らしさのある声。面倒なのでそちらには振り返ってやらなかった。集中をほんの少しでも緩めてしまったら、数式が頭から吹っ飛びそうだったから。
 かまっている暇も余裕も俺にはありません。あしからず。
「あら、無視するだなんていい度胸ね。いつから貴方はそんなに偉くなったのかしらね」
 シャーペンの芯が折れる。折れた芯はどこかに吹っ飛んでいき、見失う。振って新しく出してから計算式を書く。
「そう、貴方がそんな態度に出るのなら私にも考えがあるわ」
 ばき。また折れる。おかしいな、俺そんなに筆圧高くないはずなんだけどな。今度芯の硬さを少し上げてみるか。
「そうね、さしあたりやる事といえば……」
 ばき。現実逃避失敗。やはりどう集中してもこいつの事が頭から離れない。というか間違いなく確信犯だろう絶対に。
「なあ、わざとだろう、いいかげんにしろよ!」
 俺は思わず机を叩いて後ろの方を睨みつけた。
 そこにいるのは俺と同じ年齢の少女。俺の苦悩を尻目に紅茶を優雅に口にしている。たったそれだけの動作に気品を感じるのは俺の勘違いにしておきたい。それに俺がこんな態度に出ているのにそのあっけらかんとした態度はやめようとしない。
 やってられない。こんな調子で勉強なんかできるか。この頃おとなしかったから大丈夫だろと思ってた俺が完全に莫迦だった。
「あら、下僕は主人の言う事をおとなしく聞くものよ」
「誰がいつオマエの下僕に成り下がったんだ……って議論をした所で無駄だろうな」
 なおもひょうひょうと言い放つこの少女に思わずため息がもれる。それ一つだけで幸せが全て逃げていくほどにとてつもなく深いのが。
「いいか、俺は今勉強してるの。もう少しできりがよくなるから、それまで静かにしていてくれ」
「だからなぜやりたくもない事をやるのよ。貴方の目指す事柄には全く関係ないのでしょう?」
「全く関係ない。だけどやらなきゃいけないのも事実だ。さしあたっては人生の設計図より目先の苦難を最優先させる」
 だから黙ってろ、念を押すように視線を投げてまた勉強に専念する。案の定と言うか、さっきまで取り組んでた大問解答への糸口が頭から消失していた。悲しみが込み上げる現実を前に、また最初から考え直す徒労を行う。
 時計の音だけが聞こえたる。大時計ぐらいゼンマイ式に変えたいなと思うけど、あいにくバイト代は別に使ったからその夢は夢のまま……って脱線した。時計の音しか聞こえない。つまり、俺のペンは一向に紙に何かを書こうとしていない。
「さっきからペンが止まってるわよ」
「オマエに言われなくても分かってる!」
 また考えがあさっての方向に逃亡していった。
 もうかれこれ一時間半近くこんな調子だ。やはり俺には数学の才能は一切ない事を改めて思い知らされただけ。現実の直視なら毎度やってるからもう必要ないっての。
 と、言った所でこのまま投げ出しても、待ち受けるのは夏休みに補習。学校のみんなが休みを謳歌してる間に何が悲しくて学校に来なければならないんだ。
「こんな事に時間を使うのは無意味よ。もっと有意義に使いなさい」
「ふっふっふ、残念ながらもうすぐで無意味ではなくなるのさ」
 だから、どんな手段でも取らせてもらおう。
 カンニングは最終手段にするとして(実はこれだけで数十通りの方法を考えてたんだけれど)、真面目にかつ効率よく勉強する手段を見つけだしたってわけだ。ようは自分だけでどうにもならないなら、他人の力をお借りするってわけだ。
「実は学年で総合一位を取った本間《ほんま》を家《うち》に招待しているのだ。これで数学で追試常連な俺でも赤点ぐらいは免れるに違いない!」
「他力本願なんて情けない。もっと自分の力だけでやってみなさいよ」
「もうそう言ってられる時間はとっくに過ぎてるし、オマエは数学を知らないからそんな事を言ってられるんだよ」
 何しろ俺がいつ見てもコイツは読書したり紅茶を楽しんだりしてるだけだからな。絶対に数学なんて記号の塊にしか見えないはずだ。まあ、それでコイツに自慢をしたところで俺の心に北風が吹いたようにさびしくなるだけだから黙っとくけど。
 軽快な音が静かな家の中に鳴る。どうやら助っ人がやって来てくれたようだ。よかったよかった。
「てなわけで時間の無駄はおしまいだ。俺はすっきり爽快に夏休みをエンジョイしたいから、オマエ黙ってろよ」
「口のきき方を知らないようね。これは躾が必要かしら」
 最後まで彼女の腹のたつ言葉を聞きながら、俺は部屋をあとにして玄関に向かう。
 本間の前でも無駄口叩くようだったら、今度という今度こそ雌雄を決する必要がありそうだな。その具体的な方法を考えるだけで一週間は退屈しなさそうで、実に楽しみだ。
「ちょっと待ってろ、今開けるから」
 防犯のためのチェーンと鍵を外して扉を開ける。玄関より明るい外で立っていたのは俺と同じ背丈をした学生服の男。眼鏡ぐらいしか特徴がないとしか表せないのは、俺が他人なんかどうでもいいと思っているからか。
 俺が玄関を開けたのを見ると、本間は挨拶代わりに手をあげて笑う。俺は熱意を込めて彼の手を握った。
「救世主、来てくれたか。俺はずっとおまえを待っていた」
「……何だよその劣化ロールプレイングのオープニング。今どきそんな台詞誰も言わないって」
 自分でもそれぐらい分かってるけど、言いたくなる時だってあるものだ。
「悪いな、休日返上して俺に付き合ってもらっちゃってさ。総合どころか数学一位だったおまえに教えてもらえれば百人力だ。頼りにしてるよ」
「ああ……そうだな……」
 本間にしては歯切れの悪い返事が返ってくるけど、その報酬として部室の整理を手伝う事で約束はついてる。文句は言わないでくれよ。
 玄関の明かりをつけて扉を閉める。ついでに鍵をかけて、と。この頃何かと物騒だしな。これぐらいはしておかないと。
 本間も床に座って運動靴の紐を解こうとしている。ありきたりな蝶々結び、でも整った結び方に気を取られていると、本間がこちらの方をのぞきこんでいる事に気がついた。
「なあ。俺って今回総合一位だっただろう」
「ん、ああ、そうだな」
 俺たちの学校では総合とそれぞれの教科でベストとワースト五位が発表される仕組みになってる。この本間は九教科中四教科でトップ、他の教科も安定して上位を得て最終的に総合一位となった。競わせる事で学術の向上を促がす目的があるんだろうけど、ワーストの発表はどう考えても見せしめです。本当にありがとうございました。
「それで、君は世界史で一位だったよね」
「一応な。社会科目は得意だから」
 そんな俺は世界史だけ一位だったけど数学は逆にワースト三位。物理も赤点になりかけたあたり、計算が不得意らしい。成績にムラがあるのは考え物だから、いずれどうにかしないとこの先更にきつくなりそうだな。
「……俺、約束してたんだ。全教科で一位取ってみせるって」
「パーフェクトに最も近い十六夜《いざよい》がいる限り不可能だと思うけど……どうしたんだ一体?」
「今度全教科一位取れたら今度こそやめてくれるって約束してくれたのに、それなのに……」
 ……なんだか今日の本間はおかしい。歯車がかみ合っていないような違和感。ガチガチとその音まで幻聴として聞こえる有様だ。いつもなら鼻につくぐらいの優等生君なのに、これだとどう捉えた所で危ない人物だ。
 片手で解こうとした靴紐は余計にこんがらがっているし、もう片方の手は頭を神経質にかき続ける。その上ぶつぶつと独り言まで口にする。クラスメイトの俺から見ても正直なところ、不審者を連想させる。
「いつもいつも世界史はお前が一位だよな。どんなにがんばっても俺は一位をとれないってな」
「……なあ、疲れてるんだったらどっかファミレスでも行ってメシでも食うか? 何なら俺がおごるぞ」
「大丈夫、俺は正常、正常だ」
 今度は爪を噛み始めた。かきむしった頭からはうっすらと血まで流れ出ている。どこからどう見ても挙動がおかしいとしか言いようのないしぐさばかりじゃないか。
 さすがにこうなってまで本間に付き合わせるわけにはいかない。非常に残念だけど、帰ってもらうしかないだろう。このまま続けたからって勉強がはかどるとはとても思えない。一人でやって潔《いさぎよ》く玉砕しても、夏休みを数学の授業で謳歌《おうか》するだけの話だ。
「本間、無理しなくてもいいから帰っていいんだぞ。そこまでせっぱつまってるわけじゃないしさ。落ち着いたら――」
「俺は正常だって言っただろ!」
 あまりの大声に思わず身体がすくみあがる。後ろからメガホン持って叫ばれるのよりはるかに衝撃だ。他の男子連中ならいざ知らず、大声出したのが優等生本間学士だぞ。誰だって信じるもんか。俺だって信じない。
 その本間はもはや目がすわっている。テレビに出る一流の役者の演技でしか見た事がないような、日常だとまずお目にかかれない狂気がそこにある。しかもそんな目つきのまま笑みを浮かべるから、思わず恐怖で殴り飛ばしたくなってくるぐらいだ。
「俺は今回睡眠と自由時間をできる限り削って挑んだのにこのザマだ。いつもいつも誰かが俺の邪魔をする。君といい十六夜といい、誰かが必ず立ちはだかってくる。だから、ようやく俺は悟ったね」
「……何をだよ」
 あとずさりながら一応聞いてみる。後退したのは本当に無意識のうちの動作で、自分自身で『思わず』を実際に体験するとは思わなかった。
 あまりにも相手に異常を感じたため、記憶の隙間にあるバットの位置を確かめた。手探りで探し、ようやく目的のものを手に掴んだ。……なのに、それが心細さを埋めてくれるとはこの場合なぜか思えなかった。
「邪魔なヤツは消しちまえって事さ」
 本間の手が動くのが見えた。俺の手も反射的に動いていた。犯罪だとか暴力反対とかそんな事は一切思い浮かぶ隙のないほど、その動きはぞっとした。
 バットを思いっきり振り下ろそうとした腕にソイツの両手がかかる。ためらいなんて一切なく容赦なしに凶器を振り下ろそうとしたけれど、
「――え?」
 ぶちっとやられた。
 進学してからせいぜい箒だけになった学校の掃除、小学校の時に体験する掃除でやる雑巾を絞るように、あっさりと俺の腕がねじり切られた。
 落ちるのは持っていたバットとねじきられた右腕。あっけなくそれが床に転がろうとも、俺にはその現実味を感じられなかった。ぼたぼたとちぎれた腕から流れる血よりも、落ちた俺の一部分よりも、俺は何よりソイツに意識が向いていた。
「ああ、やっぱりこの方法は簡単だ。邪魔なヤツが一瞬で消えてくれる」
 ソイツは手のひらを閉じたり開いたりして感触を確かめてた。まるで新しいものの感触を確かめるような、そしてまだ物足りないとばかりに。そして、ソイツは歓喜に震えて自分を抱きしめる。
 いつの間にかするのが壁の手ざわり。どうも壁際まで追いつめられて逃げ場なしになったらしい。選択できる手段は、目の前のソイツをどうにかする事だけだった。
「始めはひっくり返されたみそ汁を雑巾で拭こうかと思ってしぼった事からだったかな。面白いように水がよくきれるんだ。それからだったかな、ねじる事に興味を持ったのは」
 ソイツが俺の首を掴む。二十度、四十度、俺の意思や抵抗はどこへやら、どんどん回っていく。
「知ってると思うけど俺の家庭ってすさんでてね、勉強する事でやっと自分が認められるってやつだった。それはそれは一生懸命がんばったさ。小学校でも常に一番を取れるように、努力だって人一倍した。でもさ、ある日気づいたんだよ。生まれ持った才能に勝てるわけがないってね」
 六十度、八十度、もうすぐで直角。可動を考えても百度ちょいがどう考えても限度。それ以上は稼動範囲以上になる。
「だから俺が持ってる才能で別の才能を駆逐《くちく》する。現代文で一位を取った浅田《あさだ》は既にねじっておいたから、君は一人じゃないし、十六夜もすぐに送ってやるからさ」
 ふざけるな。オマエはそれでいいかもしれないがこっちにはとんだ迷惑だ。才能なんてピンからキリまであるんだからいちいちかまってられるか。
 俺の首の骨の軋みをよそに手は動く。可動を超える動きも全く関係なく、俺の首がちぎれる事を完璧に把握しながらもねじりを続行。
 まずいまずい。コレ本当に死ぬっじ。
「さて、夏休みを返上して二学期の中間テストに備えるかな」
 なんてのんきな事をのたまいつつ、ソイツは俺の首をねじっ――。


続く

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