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朝、私は幹也の家には戻らず、自分の家に戻っていた。
いくらなんでも血まみれのままで幹也の家に戻っては何を言われるか分かったものではない。後でこの服は両儀の屋敷に持っていくとして、私は袖が長めの着物を着る。これで幹也とばったり出くわしても左腕の状態がばれる心配はない。
「……」
やはり対処しようにも、またワタシと遭遇していちいち殺し合いをしていては身が持ちそうにない。いくら偽者だからって、もう私は殺しをしないと幹也に誓ったんだ。それにワタシを倒したぐらいで事件が解決したとは思えない
出張前、トウコが渡した携帯に電話を入れる私。アメリカは午後だから大丈夫だろう。と言うか用事があろうと無理やり話を聞かせる。
「誰だ?」
「オレだ」
そっけない言葉が返ってきたので私もそっけない言葉を返す。正直彼女とは余計な事を聞かれたくないからあまり話したくはないけれど、背に腹は代えられない。
「式か。日本は今何時ぐらいだ?」
「トウコ、今お前と世間話をしてる余裕はないんだ」
「あらら、それはつれないな」
橙子は残念そうに声をあげるけれど、今の私は寛大に受け止めてはいられない。……いちいちカンにさわる。
「大体何のためにアメリカまで行ったんだ?」
「ああ、金ははずむから協力しろって言われたんでな。正直これを受けないと黒桐のやつに本当に労働基準法で訴えられそうだからな。やむなく、だ」
トウコは電話の向こうで深いため息をついた。トウコが訴えられても私はかまわないが、幹也に迷惑をかけるから止めて欲しい。
「…式が私に電話をかけてくるって事はだな。「橙子さん、お元気ですか? 私幹也のためにホットケーキ作ったの」なーんてのろけ話をするためじゃあなさそうだな」
コイツ、本当に脳の神経二、三十本は切れてるんじゃないのか?
「で、何があった? こっちは今退屈至極なんでな。話ぐらいは聞いてやる」
「昨日の事なんだが……」
私は自殺が多発している件から自分との戦いまでを簡素に説明した。軽口をたたいていたトウコのあいづちも次第に真剣なものになっていった。
「ははあ、まるでドッペルゲンガーだな。」
「ドッペルゲンガー?」
「Doppelgänger、ドイツ語だよ。doppelは英語で言うdouble、つまり二重の身とでも訳そうか。ドストエフスキーを始めとして色々な小説家がそれを題材に本を書いているが……」
「トウコ、要点だけでいい」
巫条霧絵の時もそうだったが、橙子に一方的にしゃべらせると昼を通りすぎて夜になってしまいかねないほどだから。
「ドッペルゲンガーを見たものは数日中に確実に死ぬ、とドイツの伝説では言われているが、今回のは見た瞬間に死んだ挙句に死ななかったやつには襲いかかってくるのか。ところで式、君は……」
「以前にも言ったよな。私は結だけを聞きたいんだ。ここに幹也はいない」
前フリが長いのがコイツの悪い癖だ。もう少し改めればいいのだけれども、無理だろうな。
「……分かったよ。式にはそのサラリーマンが死んだ時に確かにそいつのドッペルゲンガーが反対ホームに見えたんだな?」
「ああ、この眼で見た」
「その対象にだけにしか見えないのならともかく、式にも見えるなら対象の精神に干渉しているわけではないな。かと言って黒桐には見えなかったんだから特殊な事をしているようだが。それに実体化すらできるのだから相当なものだぞ」
「どういう事だ?」
「何も無いところからの実体化がどれほど大変か分かってるのか? かのアトラスの天才ですら一定条件を必要としたんだぞ。固有結界なら別だが無条件で出来るはずはない。そのニセ式は私の義手まで『殺して』のけたんだろう」
「荒耶の時みたいに魔術師が関わってるのか?」
「今の所その可能性が一番高いね。自然現象にしてはおかしすぎる。だが目的も見当すらつかないしのが現状だ」
やれやれ、としぐさをしたのが実際に見えるように分かる。
「それで、オレはどうすればいいんだ?」
「ドッペルゲンガーを作り出すやつを探すんだ。ドッペルゲンガーを殺したら消滅したんだろ? 肉体を残さず」
そうだ。いくら私が死の線を斬ったとしても死体は絶対に残る。それが残らなかったんだから消滅したんだろう。
「ならドッペルゲンガーは『現象』として起こったんだろう。かと言って町全体に固有結界を張って現象を起こしているとは考えにくい。多分何らかの条件があるはずだ」
条件?
「犯人が被害者を知覚するとか話しかけられたとか。事件に共通する物事を整理すれば自ずと道は開けてくる。何しろ材料が壊滅的に足りない。私がその場にいれば直接調べるんだがな……。だが油断するなよ。犯人と対峙するという事はまたニセ式と戦う事になるかもしれないんだからな」
「分かっている。それともう一つ」
「何だ?」
「幹也には何も言うなよ。事件の事も、私の事も」
そう、これは昨日もう一人の男をホームで見たときから思っていた事だ。幹也がこの事件に関われば、命の危険にさらされる事になるのだから。幹也は納得しないだろうけれど、私には彼にはこの事件に関わって欲しくない。
「分かった分かった。私も正直な話、その事件は黒桐には関わらせない方がいいと感じている。彼にはあまり伝えない事にしよう」
「じゃあな」
一方的に私は電話を切ると、今後の事を考える。
調べ事は幹也の方が得意だけれども、荒耶や殺人鬼の時のようにはなって欲しくない。かと言って鮮花たちに頼むのは論外。
「……自分で動くしかないか」
まだ眠り足りないが、いつ幹也が犠牲になるか分からない以上、のんびりもしてられない。用意をととのえ、私は家を出た。
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『……8才の少女が失踪してから10日が経過しました。まだ有力な情報はとどいていません。なお……』
結局僕が起きている間、式は戻ってはこなかった。心配になって式の家と両儀の屋敷の両方に電話をかけたけど、不在だった。寝足りないせいか頭がぼんやりとするけれども、無理やりそれを覚醒させる。
とにかく僕は朝食を軽くすませ、式の家へ向かう事にしよう。と思っていたその時、電話が鳴り響いた。
「もしもし!」
僕は思わず乱暴に受話器をとり、そう述べる。
「あー、式からの電話じゃなくて悪かったな。私だ」
電話から聞こえるのは知性にあふれた声だった。この声と僕への電話で「私だ」と言うのは間違いなく橙子さんだ。
「橙子さん。こんな朝早くにどうしたんですか?」
「こっちはまだ午後真っ盛りだぞ。それに様子をうかがうのに用事が必要なのか?」
う……、確かに。そんな事にも頭が回らないなんて、よほど僕は式ばかりに意識がむかっているのだろう。
「……こっちは何もないですよ」
「嘘つけ。おまえ、顔だけじゃなくて声にも出るな。詐欺師はまず無理だな」
詐欺師は頼まれてもお断りだが、橙子さんには何もかもお見通しのようだ。
「で、このやさしいお姉さんに言って御覧なさい」
「……それ自分で言ってて鳥肌たちませんか?」
「うるさい。ほら早く」
せかすようにうながす橙子さんに思わず僕はため息をもらした。
「実はですね……」
僕は自殺の多発の話から昨日駅で遭遇した事故、そして式の失踪までのできるだけ詳しく話した。橙子さんはうなづきながら僕の話をまじめに聞いていたようだった。
「なるほどね。おまえもおまえだが、式も式だな」
「何か知ってるんですか!?」
思わず僕は受話器にかぶりつくように叫んでしまう。しばらく反応がないのは耳を押さえているからかもしれない。結構大きく声を出したから。
「落ち着けって。式なら私がおまえに電話をかける寸前まで話してたぞ」
「橙子さんと?」
おかしい。橙子さんと話していたならば、僕の電話にはなぜ出なかったんだ? それじゃあまるで僕を避けているみたいじゃないか。
「おまえみたいに詳細まで詳しくじゃあなかったがあらかたの説明はもらっておいた。全く、タイミングが悪い……」
「式は今どこに!?」
「式なら多分でかけたぞ。事件について調べてるんじゃないか? それと黒桐」
急に声の調子が重苦しいものに変わる。
「おまえ、私が帰るまで式とは会わない方がいいぞ」
「えっ!?」
僕は思わず声を荒げてしまう。電話の向こうで煙草を吸っているのか、橙子さんは息を大きくはいた。
「なぜですか!」
「分かっているはずだ。その事件はこちら側がらみなんだからな」
「うっ……!」
僕は何も言い返すことができなくなってしまう。
うすうすは分かっていた。事故でないならこれがこちら側の事件ではない事を。僕は魔術師でも特異な能力を所持しているわけでもない。ただの人間だ。つまり、その時点で、この事件からは蚊帳の外なのだ。
「こう言うのも理由がある。今回の犯人は犠牲者に暗示をかけて自殺に追い込んでいる可能性が高い」
「犯人はって、やはり事故ではなく事件なんですか?」
「十中八九は。でなければいくらなんでも自殺がこうまで多発するはずがないしな。式も昨日夜の散歩で遭遇した挙句に一戦やらかした。つまり、今後また式を狙う可能性もあるわけだ。だが黒桐、おまえが暗示にかかったらどうするんだ?」
「……っ!」
ぐうのねも出てこない。橙子さんはなおも淡々と続ける。
「おまえが自分のヘマで死ぬのならまだしも、もちろんそれもあってはならない事だがね、おまえを操って式を殺そうとするかもしれないんだぞ。それに耐えられるのか?」
橙子さんが言う事は間違いなく正論だ。正論だけど……!
やるせない気持ちが僕を支配して、思わず奥歯を噛み締めた。いつの間にか口の中を切ったのか、鉄の味がする。
「式の気持ちも察してやれ。あと数日の辛抱だ。なに、式なら一介の魔術師が相手だろうと死にはしないさ」
「……分かりました」
僕はなるべく気持ちを抑えて電話を切った。そしてしばらくその場を動かずに考える。
おそらく式はその犯人を捜しているのだろう。手がかりは眼で見つければいいのだから。たしかにこの場合、待っているのが最良の選択だろう。でも……、
「無理だよ……。おとなしくするなんてさ」
式は犯人と戦った。つまり、それは式が危険に遭遇している事になる。いつ式の身に
なら、僕には僕のやり方がある。
僕は家を出て、考えるままに行動する事にした。
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あの後僕がやった事はまず被害者の家族構成や過去を調べ上げて共通点を探す事と、事故が起こった場所と時間を特定し、因果関係を調べ上げる事だった。共通点さえ見つけ出せれば次の事件の特定につながると思ったからだ。
結果、被害者の共通点はまったくと言っていいほど無かった。場所はほぼ十キロ以内に収まっていて、この近くで頻繁に起きているのが分かる。一応事件と事故とは起こったときの状況から判断して分けたつもりだけれども……手がかりが一切見られない。
要はつまり、手詰まりだった。
「はあ……」
僕は深いため息をついて、自分の家に向かっていた。一通りの調べが終わった後、式の家も訪れたけど予想通り留守だった。結局僕は何も出来ないまま帰ることになる。
ビルの立ち並ぶ大通りをゆっくりと歩く。歩道橋もあるけれども、それを渡ってまで向こう側に行きたいとも思わず、信号を待つ事にする。行きかう人、車、自転車、バイク、などなど。そんな景色を呆然と眺めながら信号が青になるのを待つ。
そんな時だった。
「やめ……」
本当にかすかな、でも絶対的な恐怖に怯えた声が不意に聞こえてくる。
不思議に思い、脇に眼をやると、そこにいたのはごく普通のOLだった。けれど、彼女は眼に涙をうかべ、前方を凝視したままで固まっている。まるで見るはずのないものを見たかのように。
すると突然、彼女の体が前の方に動き出した。もちろん信号は赤。いくら一般道とは言え、時速60キロは出しているだろう車が行きかう中だ。動くさまは人が普通に歩くようにも見えるし、見えない糸に操られているようにも見えた。
「危ない!」
僕がとっさに女性へ手を伸ばしたけれども間に合わない。女性はあろうことか、道路の方に飛びこんでしまう。もうそこには大型のトラックが来ていると言うのに。
まるで、昨日みたいに。
脳裏に蘇るのは昨日の惨劇。それが今目の前でも起ころうとしている。僕は何もできないまま、ただスローモーションのように流れる映像を、自分の無力さを痛感する暇もないまま眺めている事しか出来ない。
その時だろうか。歩道の方から走って女性と迫る大型トラックの間に割り込んだ人物がいたのは。黒のスーツ、黒のネクタイ、黒の靴、何もかも黒尽くめのその男性は懐から大きな布を取り出すと、自分たちの後ろ、つまりトラックの方向に大きく広げた。
直後、その男女はトラックに間違いなく激突した。
急ブレーキをかけて止まる大型のトラック。タイヤのこすれる音とゴムの焼けた臭い。
後ろから次々と自動車がぶつかるけれど、幸いそこまで混雑はしていなかったから大参事にはならなかったようだ。
ガードレールにぶつかって停止したトラックの運転手が飛び出して前を確認する。そして今度は後ろを確認する。
運転手は青ざめた表情でこちらの方に駆け寄ってきた。
「な、なあ! あんたがたも見ただろう!」
そして、いきなりこんな事を言い出した。
他の人達はそれどころではないように騒然としていたけれど、僕はその言葉に首をかしげる。
「俺のトラックは間違いなくあの2人をひき殺したはずなんだ! だって言うのに……!」
ドライバーは手に持っていたマントか何かの布を地面に叩きつける。それはさっき男性が広げていたもので、よく手品で使うもののように大きなものだった。
「これしかぶっ飛ばしてねぇってどう言う事だよ! あの二人は肉体ごとあの世に行っちまったのかよ!」
トラックの方に駆け寄って観察してみると、確かに血痕どころか飛ばされた二人の体も存在していなかった。まるで二人は忽然と消えてしまったかのように。
「これどういう事だ?」
「死体が消えた? ありえなくね?」
「何かこわい……」
人々が口々にそうつぶやいていたその時、男性が地面に叩きつけた布に異変が起きる。最初は眼の錯覚かとも思ったが、下に何も無いはずの布が次第に真ん中を中心に持ち上がっていくのだ。皆がそれに気づき、驚きにつつまれる。
そして布をマントのように広げ、出てきたのは追突されたはずの2人だった。
周りは歓声と喚声の両方があがる。まるで誰もが魔法を見たかのような雰囲気につつまれていた。いや、実際に今のは魔法にしか見えなかった。何しろイリュージョンの時のように種も仕掛けもあるような状況じゃ間違いなくない。
なのに彼は大観衆が見る中でそれをやってのけたんだ。辺りは別の意味で騒然とするしかないだろう。
と、男性は僕の方を見て、まるで静かな公園で会ったかのようにこう言ってきた。
「Guten Tag、またお会いいたしましたねミキヤさん」
そう、彼は世紀の大魔術師、ミハエルさんだった。
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おそらく夕刊の見出しは『世紀の大魔術師、女性を救う!』だろう。
あの後、警察の実況見分と事情聴取が行なわれたが、結局誰も損害を負う事にはなりそうになかった。多分ほとんどの金は保険会社が支払う事になるんだろう。けが人も全くいないので、刑事告発もされないようだ。
結局あの事件は、足を滑らせた女性をミハエルさんがとっさに持っていたトリックで救い出した、となった。無理があるかとも思うけれども、事実と言う大前提があるのだから一番しっくり来る原因はそれだろう。
僕の取調べは、連日の目撃者になった事もあって疑われはした。けれど今回女性の方がそんな事はないと言った事と他の人の証言で無実が認められて終わった。正直警察に連日ご用になるなんて夢にも思わなかった。
疲れ果ててコーヒーでも自販機で買おうと思っていたところ、ロビーで待っていたのは昨日のように式ではなくミハエルさんだった。
「あえる日を楽しみにしていますとは言いましたが、まさかその再会が今日になるとは……、これだから人生は面白い」
彼は煙草に火をつけながらそう述べる。表情は変わらないものの口元では笑みを浮かべていた。
「僕もまさかあなたと再会するとは思いませんでした。しかもあんな鮮やかに人を救出するなんて驚きです」
「偶然タネを持っていただけにすぎません。むしろトリックを教えろと散々でしたよ。魔術師に対してね」
「確かに。魔術師にトリックを聞くなんて通常じゃあ考えられない事ですからね」
僕も笑いながら同意した。トリックを明かしたとたんに「なーんだ」で済まされる事間違いないだろうし、理解して調書に書き込むにしても表現力が試されるだろう。
それにしてもこの人と話しているとなぜか落ち着いてくる。話し方のせいかな?
「ところでミキヤさん」
僕の名前は多分式と僕との会話で聞いたものを覚えといてくれたのだろう。ちょっとの間で名前を覚えてもらえ事はちょっとうれしいかもしれない。
「これから私はあの女性に話をうかがいたいと思うのですが、ご同行しますか?」
「え?」
いきなりの提案に僕は驚く。あの女性とはもちろん被害者の女性の事だろう。
確かにそれは魅力的な案だ。何しろこっちは同様の事件で手詰まりの状況、この事件は明らかに今までのものと関連があるはずだ。なら女性から証言を得る事は間違いなく真相に近づくはずだ。でも僕が同行していいのだろうか?
「大丈夫ですよ。おとといまでお互い顔を合わせなかったにもかかわらず、こうして連日会うのも何かの縁、でしたらあなたにも聞いていただきたいのです」
「……」
僕は橙子さんの言葉を思い出す。真相に近づく事は明らかにあちら側に近づくのと同意義だろう。ならばこちら側の存在の僕らが近づいていいのだろうか? あちら側に対して成すすべがない僕が。
「それでも……」
それでも僕は、式が1人で向かっていくのを黙って見ていられない。ならばする事はただ一つだけだった。
「分かりました。それではお言葉に甘える事にします」
ミハエルさんは興味深げにコクリとうなづいた。
女性の事情聴取もあっさりと終わり、僕ら3人は近くのファミリーレストランで話をうかがう事になった。女性は事件の恐怖よりもミハエルさんに助けてもらった事の方が印象に残っていたようで、緊張はしていなかった。
「まさか魔術師のミハエルさんに助けていただけるとは……、本当にありがとうございました。感謝してもしきれません」
女性は椅子から立ち上がって深々と頭を下げる。この女性、結構イリュージョンが好きなようで、もう眼を輝かせていた。
「いえ、当然の事をしたまでです」
ミハエルさんは本当に当然の事をしたかのように返答するだけに止めたようだった。
「それよりあの時、何が起こったのかお教え願いますか?」
「はい……」
さすがに事件の事を思い出すと顔が青ざめていく。
「私はそこの中企業で働いているOLなんですけど、今日もいつもどおり外回りをしていたんです。あの横断歩道を渡るのもほぼ毎日の事なんですけど、今日もいつもと変わりありませんでした」
ウェイターが注文を聞きに来たので、僕はとりあえず二人に意見を聞いて、飲み物だけを頼む事にした。ウェイターはかしこまりましたと恭しく一礼して去っていった。
女性は水に口をつけ、続ける。
「横断歩道で待っている時は仕事の事で頭がいっぱいなんですけど、今日はなぜかふと前の方を見たんです。向こう側にも信号が青になるのを待っている人達がいたんですけど、その中に……」
女性は自分自身を抱きしめ、震えだす。僕達は何もせず、彼女が落ち着くのを待った。ウェイターがコーヒー三つを運んできたので、それを各個人の前に差し出した。
「砂糖は何杯入れますか? それとミルクは?」
「……砂糖は抜きで。ミルクはお願いします……」
ミハエルさんが女性のコーヒーを取り、やさしく聞いてくる。女性は深く深呼吸をして落ち着きを取り戻していく。
「その中に、わたしがいたんです」
「「あなたが?」」
思わず僕とミハエルさんの声がかぶる。ミハエルさんは眉をひそめた。
「はい。服も、髪型も、顔も、体つきも、全く同じなんです。双子でもあそこまで似ないでしょう」
「ほう……」
「そしてそのわたしは何もしませんでしたが、感じるんです。こっちに来いと言っている様に。すると体が動き出すんです。自分の意志に反して、前に進んで。そして……!」
「そして、ああなった、と……」
ミハエルさんは灰皿に煙草を押し付けた。その煙草、たしか僕の記憶が正しかったら結構高めのもので、日本では売ってないもののはずだ。などとバカらしい考えが脳裏をよぎる。
しばらくの静寂が三人をつつんだ。
「……その間、そのわたしは笑みを浮かべて私の事をずっと眺めていたんです。まるで私の最後を看取るように……」
「なるほど……、ドッペルゲンガーみたいですね」
僕は思わずそうつぶやいた。その単語は二人とも知っていたようで、説明する手間はなかった。と言うよりはむしろ二人ともそれを連想していたのかもしれない。
「本当、まさにそれよね。あれは」
それを他人事のように女性はつぶやいたが、本当にそうとしか思えない状況だったに違いない。自分と全く同じ存在に出くわす事なんて人生にあるはずのない経験なんだから。
ミハエルさんはコーヒーに一口つけ、こう言った。
「――大体の事情は分かりました。おぼろげながら真相がつかめてきましたよ。原因の究明は私がしておきますのでどうかご安心を」
「原因の究明を、貴方が……?」
信じられない、とばかりに目を大きく開いて彼女はつぶやく。警察でも探偵でもないあなたが?と言うより超有名なマジシャンであるあなたが私一人のために?と言いたげな感じだ。ミハエルさんは笑みでその驚きに答える。
「そうですよ。超常現象のまま終わらせてしまえば再び貴女を襲う可能性も否定できません。私も新聞は読みますから知っているのですが、このような事件は何件もおきているようなのです。幸い私はまだ日本におりますので、その間には解決できるのではないかと思います」
淡々と述べるミハエルさん。その顔には恐れなど一片たりとも見受けられない。彼の言葉には人を安堵させるような優しさがあった。そんなミハエルさんの言葉に、女性はぼろぼろと涙を流しだした。
「ありがとうございます……。ありがとうございます……」
彼女はハンカチで自分の涙を抑えるのが精一杯だった。
女性はあの後仕事に戻っていき、テーブルに残ったのは僕とミハエルさんだけになった。女性もいなくなったので、僕らは相対して座っている。とっくにコーヒーはなくなっていたので追加注文をしておく。
「さて、ミキヤさん。あなたは今の話を信じますか?」
そんな互いの沈黙を破ったのはミハエルさんだった。彼のまなざしは真剣だったので、僕も正直な意見を言う。
「信じます。あの人の言っている事に嘘は絶対にないです」
「いえ、嘘は言ってないでしょう。ですがそれが事実だと思いますか? ……と私は聞いているのです。何しろ彼女の主張するドッペルゲンガーは他の人達には見えなかった。多分貴方もその目で確かめてはいないはずですよね」
「え、ええ」
「ならば彼女の幻覚かもしれない。そんな作用を引き起こす何かが起こっている、とも考えられるわけです。実際に見えてもいない現象を信じる事ができるんですか?」
……確かにその通りではある。ホームの男性のも今の女性のも僕には一切見えていなかった。単純に幻覚に驚いてふらっと前に飛び出した可能性だって否定できない。
だけど、僕は自分が見ている世界だけが全てじゃない事を知っている。思い出してみればホームの男性の時には式は一点だけを見つめていた。つまり最低でも式には見えていた事になるはずだ。
なら、僕の答えは一つだけしかない。
「もちろんです」
きっぱりと、僕は答えた。
僕の断言にはミハエルさんも驚いたようで、目を見開いてこちらを眺めている。やがてそれは親しみを込めたまなざしに変わった。
「なるほど、やはり君は実に面白い。どうやら初見の印象は間違っていなかったようです」
ミハエルさんはうなづきながらコーヒーを飲み干した。空になったカップをウェイトレスがうやうやしく片付けていく。
「私も今の話は信じましょう。職業柄何が本当で何が嘘かを見分けなくてはならないのでね。私の判断では彼女の言っていた事は事実でしょう」
「それじゃあ怪奇現象じゃないですか」
「ええ、実に興味をそそります」
「でも……」
僕はその先を言おうとして、言葉につまった。
橙子さんの意見ではこの事件はまずあちら側関係のものらしい。そして式。彼女もこの事件に関わっていて、自分なりに真相に近づいているはず。
なら僕やミハエルさんはどうなんだろうか? そんな事を考え出したらきりがない。僕らは……。
「無力ではありません。私は無論の事、貴方だって」
「え?」
思わず驚嘆の声が口から出てしまう。別に思ったことの続きが無力、ではなかったけれども、まるで僕の心を見透かすような台詞だったからだ。
「貴方は誰よりもやさしい。そして平凡だ。が、それでも自分の思う人のためならその命すら軽いようですね」
そう言ってもう何本目になるだろうか、煙草を灰皿に押し付ける。そしてもう一本取り出そうとするが、もう空のようで、ポケットにそれをしまった。
「だからこそ言いましょうか。私は貴方に協力しましょう、とね」
「僕に……協力する……?」
ミハエルさんは困惑する僕をよそに、ふふっと笑った。
「あくまで推測であり、調査したのではございませんが、貴方はこの事件を調べようとしている。それには貴方の守りたい者が深く関わっている。いや、正確には関わろうとしている、でしょうか。その人を危険なめに合わせたく無いが故に貴方は行動している。違いますか?」
「……いえ、おっしゃるとおりです」
すごい、その一言しか思い浮かばない。
「おそらくその人物は、あの喫茶店で一度お目にかけた少女、たしか式と言いましたか。彼女ですね」
「……すごいですよ。そんなに分かるなんて」
そうだ。僕がこの事件を調べたいのはただ1つ、その理由しかなかった。
つまり式に無事でいてほしい。ただそれだけのこと。
「貴方は気兼ねなく調査を行なってください。私も協力は一切惜しまずにお手伝いいたしましょう。ですが犯人に遭遇した場合は私にお任せさせてください。貴方はこんな事で死んでいい人ではありませんから」
「僕が貴方に協力するんではなくて、貴方が僕に協力するだなんてあべこべですよ」
「言ったでしょう。君に興味がある、と」
思わず僕はうなづく。確かにそれならいいかもしれない。なんて言ってもこの人は魔術師なんだから……。
「って駄目ですよやっぱり」
「ほう、それはまたなぜ?」
思わず納得しかけたけれども、魔術師は魔術師でもこの人は手品師じゃないか。ならばこの人もこちら側になる。あちら側を相手にしてどうにかなるはずがない。
「だってあなたは手品師じゃないですか」
だからキッパリとそう言った。いくら彼が日常でもイリュージョンが出来るほどの腕前を持っていても、彼を危険な事に巻き込むわけにはいかない。その危険に足を入れる僕も僕だけれども、事情を知っているのと知らないのとじゃあ全く違ってくる。
「心配はありがたいですが、無用です」
けれどもミハエルさんはまたも見越したようにさらっとそう言い放った。
「でも……」
それでも説得しようと食い下がる僕だったけれど、
「『おまえら側の人達がこちら側には関わるな。おとなしくしていろ。』とでも言われましたか?」
彼の言葉で一瞬固まった。
僕は思わず立ち上がって、ミハエルさんを見る。彼の姿勢はさっきから全くと言っていいほど変わってない。いや、さっきから不気味なほどに変化がみられない。テレビで見かけた時、最初に出会ったとき、今。そして、事件の時にも一切――。
今この人は何を言ったんだ? その言葉は……。
「私のメイガス(魔術師)の称号はたしかに手品師の意味もあります。ですが、本来の意味も兼ね備えています」
そう、あの言葉はあちら側にいる人にしか言えない言葉だ。つまり、あちら側の世界を知っている人にしか。
「一応私は大英博物館の魔術師、マリンブルーの色ももらっています。専門分野は明かせませんが、ご安心いただけましたか?」
彼はこう言って笑みを浮かべたのだった。
つづく
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