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そこがどこかは分からない。この世に存在しない精神の世界かもしれないし、別次元の世界かもしれない。しかしそこは確かに存在していた。
そんな世界の中、二人の男がいた。一人は本当に存在するかも分からないほどおぼろげではあったが、もう一人は確かにそこに存在し、煙草をふかしていた。
もしかしたらその場にまだ人がいるかもしれないが、煙草をふかしたその男にとっては全く関係の無い事だった。
『ここぐらいは煙草を止めてはどうかね?』
「学院長も元老院の皆さんもお人が悪い。こうして私がこの場に立っている事が奇跡とお思いになればよろしいでしょう」
あきれ果てる真正面の人物に対し、煙草の男は嘲るようにくくっと笑った。そんな彼の態度に誰も動じない。いや、むしろその反応が返ってくるのが当然だという感じだ。
『…まあいい。今日呼ばれた用件は伝わっているな?』
「さあ、私には何のことだかさっぱりですが?」
無礼を捨て置いておき改めて真正面の人物は述べるが、明らかに男は確信的にいかにも自分は何も知らないと言った表情でたんたんと述べる。
それにたまらないのは傍観者たちだ。絶えかねるものも複数表れ、中には立ち上がる者までいる。
『貴様! その人を小ばかにした態度は一体……!』
『まあ落ち着け。今に始まった事じゃない。』
元老院メンバーの会話に全く関心がもてない煙草の男は、やれやれと言った感じに両手をあげる。男にとって元老院の者たちがいけ好かない事など初めて出会った瞬間から分かっていた事であり、何ら驚くべき点がない。
『さて……君の研究は素晴らしいものだった。これからを進む者たちの道しるべになるだろう』
「それは皮肉ですか? 私は失敗したと言うのに」
男の表情がほんのわずかだが曇る。それに気づいてか、それとも気づかないのか、真正面の人物はなおも淡々と述べるだけだった。
『その研究を行なった君に対し、協会は称号を授ける事にした』
「ほう、それは意外ですね。称号をもらう事など何一つ出来ていないと言うのに」
辺りが静まりかえる。まるでそこには何も存在していないかのように。
『君に送られる称号は、藍色、マリンブルーだ。』
そして流れるしばしの間。それが数秒だったか、数時間だったか。
沈黙を破ったのは煙草の男だった。納得と言った、だがあきらめや失望もある程度混じった顔で肩をすくめる。
「マリン……ブルー……なるほど、あなた方も私の研究に対し、的確な判断をしたわけだ」
『ほう、全く動じていないのは少々意外だよ。彼女は大変だったからな』
「いえ、自分の事は自分が一番分かっていますから。それを認めるかはまた別問題ですがね』
煙草の男は先ほどと全くそのままの態度で煙草から口を離し、白い煙をはいた。それが綺麗に輪になって宙をただよう。
「まあ、封印指定にならなかっただけでももうけものと考えておきましょうか。」
『用件は以上だ。下がっていいぞ。』
その言葉が終わらぬうちに煙草の男はその人物に背中を見せ、その大部屋を出て行った。
男は歩きながら煙草をすっていたが、短くなっているのに気づき、床にすててそれを踏んだ。
「…まあいい。私の目指すのはただ一つ。過程や方法などどうでもいいのですから」
そして男は足早にその場を後にした。残った煙草の火もかすかにあったが、そのうち消えた。
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「あーあ、もうこんな時間か」
少年はそうつぶやいた。
太陽はとっくに西に沈んでおり、雲が空を覆っているので星さえも見ることができない。雨がしとしとと降り、地面と足元をぬらす。道路に設置された街頭の光は雨に反射し、淡い光となっていた。
大通りではないが、幹線道路であったので交通量は多く、歩道も整備されていた。
天気のせいか、人々は一様に傘をさし、その人通りの少ない歩道を歩いている。ある者の顔は見えるが、ほとんどの人物の顔を見ることはできなかった。…別に興味もないけど。
少年がここまで遅れたのは部活のせいだった。運動部、期待の新人。そう言われてきてレギュラーまで食い込めるようになった。
あとは練習あるのみ。大会もちかいし、自分の実力を示すチャンスだ。そんな風に意気込んで毎日あけくれていた。
「……毎度思うんだが、ここの信号変わるのおせぇよ」
そんな彼自身は信号待ちをしていた。大通りでないので橋があるはずもなく、ただぼうっとしていた。
「そう言えばそろそろテストも近いな……」
部活に熱心なのはいいが、それに比例して成績が下がっていくような気がしていた。もちろんそれは親にもばれており、今度成績が悪かったら部活動をやめさせるとまで言われてしまった。
それだけはごめんだ。せっかくここまで来れたのに……。
少年はポケットから写真を取り出した。部活動の仲間と共に撮ったもの。だが彼にとって一番大切な人物がそこに写っているから持っているだけだ。
一年下の後輩マネージャー、彼女と最近良い関係になっていた。多くのライバルがいるなか、勝ち残った自分自身に少し感謝する。
今度部活動が休みのときにデートに誘おう。行かせたいところが山ほどあるんだ。
信号が青になった。ポケットに写真を大事にしまいこみ、道路の横断を始める。
それは果たして偶然だったのか、それとも必然だったのか、彼は傘を上げ、足元だけでなく前方を見る。
自分と同じく道路を横断する人物は数人。だが道路の向こうにある歩道で立ち止まっている人物は1人だけ。
その彼に、目が止まった。
街灯が暗いせいか色まではよく分からないが、今の自分と同じように学ランを着込んだその少年。傘で頭部は隠れていて、顔は見えない。ポケットに手を入れたまま微動だにしない。…
「……学ラン着た奴なんざそこいらにいるか。にしても何であそこにつったってるんだ?」
俺には関係ないがな。と付け加えて彼はつぶやいた。他人がどうつったっていようと、自分にさえ厄介ごとが回らなければそれでいい。
道路を4分の3ほど渡ったあたりだろうか、不意に向かい側で立っていた少年は傘を上げた。
それは、歩く少年が、一番見知った顔。
「……俺?」
彼にはそうつぶやく事しか出来ない。
自分では鏡ではなく、ビデオ、写真でしか見たことのない相手から見た自分がそのままそこにいた。双子がいるはずもない。明らかに、それは自分だ。
少年に動揺が走る。一方の彼は不敵にふっと笑うだけだった。
「なっ…。」
次の瞬間だったか、だいぶ経ってからだろうか、彼は側面から強い衝撃を受けた気がした。一瞬見えた歩道の信号は既に赤に変わっていて、それから世界が回転し、地面が自分に襲いかかってくる。
「ぎゃあぁあっ!」
「うわあっ!」
歩道にいた人達は一斉に叫び声を上げたり、狼狽もする。少年は地面と接触したようだが、不思議な事に痛みを感じなかった。
何かにぶつけられたのだろうか、体を動かそうとしても指の先すら動いてくれない。声を出そうとしても、空気が若干出るだけだった。
授業中、睡魔が急速に襲ってくる時と同じように意識が薄れていく。
集まってくる人々の中、自分が不敵に笑っているの最後に見る。
雨と血が地面を幻想的に広がっていく中、彼の視界は暗転した。
多重鏡像
第一話
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『今夜お見せ致しますのははるばる来日してくださった世紀の大魔術師、ミハエルのスーパーイリュージョンです!』
仕事がない今、何もする事のない僕はテレビをつけてただそれを眺めていた。
無意味な暇つぶしなら本を読んだほうがよほど経済的かもしれない。テレビだってついていれば電気代がかかるのだ。
台所では式が晩御飯を作ってくれている。包丁の音が聞こえてくるのはほほえましい。
今見ているのはたまにやる手品の特番。日本の有名手品師と外国から招いたイリュージョニスト達とマジックバトルを行なわせる番組だ。そしてたまにゲストを相手として『トリックを見破れ』みたいな企画もあるけど、そこで使われるのはとても簡単なもの。
……まあ、どんなトリックでも毎回一番驚くのはゲストの芸能人だけど。
「コクトー、こんなのに興味あったんだ」
と、式が料理を盆に乗せて運んでくる。近くに来ると作った料理のいいにおいがたちこめてきた。
昼は正直食べていないに等しかったので、これを待ち望んでいた。
「いや、ただ他に見るものがなかったから見てるだけだよ。でも結構興味惹かれるのも事実かな」
「手品はあくまで手品だ。それ以上でもそれ以下でもない」
式は興味なさそうにつぶやいた上でテーブルに皿をのせていく。相変わらずの料理人顔負けの腕に僕は頭が上がらない。
手品はあくまで手品、か。
「橙子さんも同じ事を言いそうだなぁ……」
「トウコと?」
まゆをひそめて明らかに不快といった表情を見せる式。……少し失言だったかも…。
「ごめん、僕の勘違いかな。」
「莫迦」
うん、味噌汁やご飯のゆげがあがっていて、とてもおいしそうだ。いただきますと言って僕と式は食事に入る事にした。
テレビは相変わらずマジックバトルのままで、ミハエルというイリュージョニストが舞台に上がってイリュージョンを見せている。
そういえばこの手のマジックバトルではスタンダップマジックよりもテーブルマジックが主流だ。収録現場などの小〜中人数向けが多いけど、この人は大衆から一対一までやってのけている。
今彼がやっているのはテーブルマジックではなく、イリュージョン系の瞬間移動マジックだ。箱の中に入れられた美女とその上に乗る彼。マントが一瞬彼らを隠すと、美女と彼が入れ替わっている。そんなやつだ。
「式はこういったマジックのタネって分かるのかい?」
「さあ、でも分からないからこそ魔法(マジック)なんだろ?」
「そうだね。」
あれ? 今と同じニュアンスの会話を誰かとしたような気が…。
「なあ式、こんな会話、誰かとした事がある気がするんだけど、これってデジャビュ?」
「少なくともオレとじゃない。どうせトウコあたりとだろ?」
橙子さんと手品の話を? うーん、手品の話を…。
ダメだ。思い出せない。既視感、デジャビュなのか、それともただ忘れただけなのか。
「ところでコクトー」
「ん、なんだい?」
式は表情は全く変えずに話題を変えてくる。一気にあちらの世界からこちらの世界に戻されて少々困惑している自分がいる。
「この近くでひき逃げがあったって知ってるか?」
「え? そんなのがあったの?」
一応新聞は全て目を通しているけれど、この近くで起きた事件までは知らない。
「ああ、ちょっと遠くの幹線道路で高校生がトラックにな。何でもよそ見で飲酒運転をしていた運転手も運転手だが、横断歩道で何もせずに立ってたんだってな。」
「ふうん……」
幹線道路でひき逃げか……。まだ人生先は長かっただろうに。
と思いながら僕は食事を進める。おこうこがご飯と合っておいしい。
「……ん?」
あれ? そう言えば……。
「式、君が周りと全く縁のない人の死去をあんじるなんて意外だね」
「何が意外なんだ?」
少しむっとした表情で式は言ってくる。でも確か僕の記憶が正しかったら式は……。
「だって、随分と前に『小学生を数人惨殺』ってニュースを僕が話題にしたとき、ものすごくそっけなかったじゃないか。だからそういった事件は無関心なのかなって」
「意外でも何でもない。今だってそうなんだから。」
え? 今でも?
じゃあ何で式はそんな事を話題にしたのだろうか。式がそんな日常的な事を口にするのは僕に話を合わせてくるためだろうか? いや、多分そんな事じゃあないだろう、と自分で納得させて少し考える。
「まさかあっち側がらみ……とか?」
「その点は安心しろ。何も視えなかったからな。」
式はあっさりと僕の考えを否定し、漬け物に手を伸ばす。何でも秋隆さんがわざわざ式にもたせたらしい。式は自分の作る料理には妥協を一切しないが、出された料理は黙々と食べるようだけど、これは本当においしい。
って話が脱線してるな。
「じゃあ何で?」
「お前の心配。たまに自分の考えにふけってる事があるからな。」
彼女はそっけなくそう言ってなおも黙々とご飯を食べているので、僕と目を合わせようとしない。
でも頬は少し紅色に染まっていた。
式が僕が心配でそれを話題に……。その意味に気づいて僕もつられて赤面してしまった。
「式……」
「コクトー」
「え?」
僕が感動のあまりに式を抱きしめたい衝動にかられていると、釘をさすように彼女が述べてくる。
「ご飯が冷めるぞ」
「……そうだね」
その後はまるで何事もなかったかのように晩御飯の時間が過ぎていったのだった。
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「ほう、昨日のマジックバトルを見たか。中々の手際だったな。ネタが分かるように見せていない所がいい。」
次の日、伽藍の堂。
仕事が山積みしている僕を尻目に持ちかけてきた世間話に無難に返事を返したところ、伽藍の堂で橙子さんはそう言った。その後に手品に関しての小ネタを疲労するものの、ほとんど耳から耳に通り抜けていった。
「しかし鮮花のやつはともかく、式も手品が嫌いだったか。あの無駄かげんが私は好きなのだがな。」
「無駄かげんって……」
そのマジックで仕事をしている人と楽しんでいる人に失礼じゃないですか、と言おうとして、この人が本物の魔術師だった事を思い出した。確かに橙子さんから見ればマジックは無駄なのかもしれないけど……。
「ところで橙子さん、何で眼鏡をかけてないんです?」
ふと素朴な疑問を口にする。
橙子さんが眼鏡を外す時はあちら側の話をする時の方が多い。他愛のない手品の話にあちら側の世界に関わっているとはとても思えないし。
「聡明な私の方が仕事をやってくれるからか? 仕事の鬼だな君は」
橙子さんはそんな疑問に対してもやれやれとつぶやきながら、こんな事を言ってくれました。
「それを言うならもう少し給料上げてください。いや、せめて滞らせるのだけやめてくだされば結構ですから」
「考慮に入れておこう。ちなみに眼鏡は『今そうしたい気分』なんだ」
……そうですか。あまり意味ないんですね……。それに橙子さんの考慮や善処って言葉は全くあてにならない気がするんですが。
そんな僕の思いをよそに、橙子さんは笑みを浮かべながらポケットから何かを取り出し、こっちに見せてきた。
「さて黒桐、ここに3枚の500円玉がある」
「何ですか唐突に。手品でもやるんですか」
「まあ見ておけ」
さらりと僕の抗議を受け流し、橙子さんは左手に3枚のコインを持つ。右手には何も握られていないし、袖はめくりあげてトリックがない事をアピールする。魔術師である橙子さんにトリックも何もあったものじゃないとひそかに思うけど。
「見たか?」
「は?」
「は?じゃない。右手には何も入っていない。タネも仕かけもございません」
僕は頭をかかえる。やっぱりやるのは手品ですか……。胸の辺りが痛くなった気がするのは胃のせいじゃないですよね?
「なくたって魔術で……」
「それはさておき」
僕の当然の疑問をその一言だけでごまかす橙子さん。……まあ、僕も別にこだわる所じゃないからスルーすることにした。
「ではこのコインが右手に瞬間移動します。怪しい所は何一つございません」
橙子さんは意気揚々と両手を握った。もちろんこの時点でコインは見えなくなる。そして彼女は右手と左手を徐々に近づけていく。
「ではまず一枚目を……」
「ちょっと待ってください」
「え?」
両手の間隔が大体十センチぐらいになった所で僕は声をかけ、彼女の手を停止させた。橙子さん明らかに不満そうな表情を浮かべているが、動作の途中で怪しむのはトリックを破る常套手段でもあるし、許してもらおう。
「ちっ、疑い深いな。ほれ、この通りまだコインは残っているぞ」
僕が何かを言う前に彼女はしぶしぶと左手を広げて見せる。確かにコインは3枚そこにはあった。魔術の類は使っていないようだ。
「分かりました。続けてください」
僕は手で続行をうながし、彼女も笑顔でうなづく。
「では…。ほれ」
左手を再び握り、親指を軽くあわせて再び間隔をあける。そして右手をほんの少し開くと、そこには確かに一枚のコインがあった。
「続いて……」
右手を軽く振ると、チャリーンとのコイン独特の音がする。そして、指の隙間から二枚目が出現する。
「そして、ほら。全部移動した」
左手を開くと既にそこにはコインはなく、右手を完全に開いた中にはコインが三枚入っていた。確かにこれは魔術ではなく、間違いなく手品だった。
思わず僕がする拍手に得意げになる。
「意外ですよ。手品ができるなんて」
「まあな。暇つぶしに覚えてみた。これでなかなか面白いんだな」
そう言いながら橙子さんは片手で二枚の500円玉を使ってコインロールまでする。……つくづくこの人は謎だ。
「で、トリックは分かったか?」
「トリック…ですか?」
「ああ。」
笑みを浮かべながら彼女は身を乗り出してきた。目が普段する仕事の時よりも輝いて見えるのは気のせいにしておきたい。
今のやつのトリック……か。
「『チャリーン』って音が鳴ったときは既に三枚右手にある事は分かります。それとその時点でコインは左手にないです。『移動』はさせてないでしょう」
「ほう、なぜだ?」
「二枚目を『移動』させた時に右手に二枚持っていましたが、あの見せ方では三枚目があってもおかしくありませんから」
「なるほど、見ていないようで見ているな」
感心したといった声を発して橙子さんはつぶやく。それぐらい僕にだって分かりますよ。
「それと最初僕が指摘した時に左手は3枚持っていましたが、ひょっとしたらその時点で右手にはコインがあったかと」
「その推理の根拠は?」
「だって右手は見せてくれなかったじゃないですか。『この通り』と言われて示したのは左手だけですから」
橙子さんはくわえていた煙草を取り、白い煙を吐き出す。そしてそれを灰皿に押し付けた。吸い残しと灰になった間の部分がわずかに赤く染まって、消えた。
「『出現』と『消失』のタネは半分分かっていたか。だがそれではどこから右のコインを出して、左のコインの消失原因が分かってないじゃないか」
「うっ……!」
確かに。何らかのテクニックを使って出現&消失を行なっている事は間違いないんだけど……。芸能人とかがたまに賞金をかけてトリック見破りバトルをやっているけど、あれぐらい簡単だって半分ぐらいしか分からないぐらいだし。
橙子さんはにいっと笑いながらコインをポケットにしまいこんだ。誇らしげなのがちょっと腹立たしい。
「まぁ、今のはかなり初歩的なものだから私ごときにでもできたんだ。テーブルマジックは観客に近い分、小手先も十分だがより騙す技術も必要となってくるしな」
「でもすごかったじゃないですか」
確かにあれ単体だったら趣味の手品ぐらいだけれど、橙子さんだったら器用だからすぐにでも色々な手品を覚えそうだと思う。
「まあ、私のコレ系統はイカサマゲームでこそ本領を発揮するんだ。手品じゃない」
なんか今さりげなくとんでもない事を言った気もするが、まあスルーしておこう。
「今度サマ有りで麻雀やってみるか? 国士無双連発してやるぞ」
「全力でお断りしておきますっ」
そんな事されたんじゃあそのうち金がかかってきて、僕の給料が根こそぎ取られかねない。式のヒモになる事だけは絶っ対になりたくない。
「だがな、手品とかイカサマが嫌いじゃないのは魔術にほんの少し似ていると思っているからなんだ」
「え?」
手品が魔術に……。たしかこのフレーズ……そうか、これが昨日式と話していたときの違和感だったのか。
「手品、別にイリュージョンでもいいがね、それはトリックが分かってしまうと「ああなんだ、そんな事だったのか」となる。そしてその手品を使えるようになってしまうだろう? 練習しなければとか野暮な事は言うなよ。たしかに手品が出来れば大衆を喜ばせられるだろう。
だがトリックを知っている者もいずれ必ず出てくる。自分が失敗するのは当たり前だが、観察力の鋭いものはいつか必ずトリックを看破してみせるだろう。そうなってしまったら手品の価値が大きく下がる。ちょうど使い手が多い魔術の貴重性がないのと同じように、な。
だからこそ手品師は新たなトリックを考える。……まあトリックを作る専門の人物から買っているのが一般的らしいが。
ほら、少しだが似ているだろう?」
「言われてみれば確かにそうですけど……」
橙子さんの言葉は確かにしっくり来る部分もある。だけど同時にしっくりこないような不思議な印象も与える。
「そして時として現れる大天才とか呼ばれてる奴は、そんな同業の奴らすら分からないような奇想天外なトリックで市民をあっと騙す」
「騙すって……」
「なんならあっと言わせると言い換えてもいいぞ。とにかく、大天才の考え付いたトリックなんざ誰にだって見破れないだろ? 発想力がその天才くんに追いついてないわけだ。バラさない限りその手品は『魔術』であり続けるわけだ。
人々には決して行うことが出来ない、まさに魔法と呼ぶにふさわしい技術……。ほら、これは魔法みたいだろ?」
うーん、言われてみれば確かにその理論には説得力があるような……。
あれ、待てよ。魔法はそんなトリックが分かったぐらいで使えるものではなかったはずだけど……?
「ですが、ばらせば他の手品同様つまらないものになりますけど」
「大天才が行えるからと言って、他の手品師が同じトリックを知る事ができても実際に行えるとは限らない。大天才ゆえの器用さや雰囲気もあるだろうからな。地道な経験と努力を積み重ねて至る鬼才もいるが、そこに至れるにもやはりある程度の才能が必要だろうな。
まあ最も、トリックをばらす手品師なんてそうはいないがね。よほど簡単なものでない限り」
橙子さんはポケットから煙草を一本取り出し、それに火をつける。そう言えばライターも橙子コレクションの一つにあったっけ……。
「ジッポは無機質で味気ないからヤダ。百円ライターなんざ論外だな。ありゃマッチより風情がない。やはり私はこれがいい」
とか言って買った骨董品っぽいもののせいで、僕の給料がパーになった事もあったけど。
「無論魔術と手品を同列に考えるなど馬鹿げている。手品と魔術の最大の違いは、手品は誰にでも見破れるチャンスがある事だな。ただしそこには駆け引きが出てくる。手品師は客を騙し通そうと、客は手品師のトリックを暴こうとする。そこがなかなか面白いんだ」
「はあ……」
気のない返事を僕は思わずしてしまう。正直仕事もたまりにたまっているしそろそろ本腰を入れて再開をする事にした。
「黒桐、どうせなら手品やイリュージョンの一つや二つぐらい覚えてみたらどうだ? 思わぬところで日常に役にたつかもしれないぞ」
「僕が騙す事に長けていると思っているんですか?」
「だからこそ言ってみた。君はマスター・キートンを知らないのか?」
「マスター・キートン?」
マスター・キートン、どっかで聞いた事があるんだけど……。
「それってチャップリンと並ぶ……」
「はいはい、それはバスター・キートン。おまえがぼけるなんてめずらしいな」
「ぼけたつもりは一切ないんですがね」
知らないものは知らないとしか言いようがない。なのに橙子さんはまるで僕の無知を嘆くように首を振るんだからたまらない。
「マスター・キートン、漫画だよ。調査能力や軍人としての経験は元より、機転がきくんだ。いかなる逆境においても自らの経験と知恵で切り抜ける、普段は頼りなさそうな男。だからそれを手本にすればどうかなーと思っただけだが……おまえじゃ無理そうだな」
何かとてつもなく侮辱された気がするけどまあ気にしないでおく。
会話が終わると橙子さん机の中をあさりだし、書類を僕に手渡した。書いてあったのは大まかな数日分のスケジュールだった。疑問符を思わず浮かべて首をかしげる。
「これは?」
「明日からニ、三日ほど私は出張に行ってくる」
「いきなりですか」
「急な事だったんでお前を連れて行く事が出来なかった。その点はすまんな。詳しい事はそれに書いておいたから今日帰った後にでも読んでおいてくれ」
「分かりました。大変そうなんですか?」
「まあな。気が進まないが引き受けてしまったからには仕方がない。何しろそれをやらない限りお前への給料どころか藤乃へのバイト代すら払えない状況だからな。」
ちょっとまて。何かいまとんでもない事を聞いたような気がするぞ。
「また何かに使い込んだんですか?」
「ちょっと古代マヤの…ごにょごにょ……」
「ごにょごにょでごまかされるのは漫画の世界ぐらいですよ」
「黒桐、頼むからその今にも飛び掛ってきそうな目つきはやめてくれ。とにかくっ」
全てをごまかそうとする魂胆が見え見えの大振りなしぐさをとる橙子さん。冷や汗が頬を落ちていく。
……まあそのへんを問い詰めたところで未来は変わりそうにないし……毎度の事だし。なれていく自分がむなしくて泣けてくる。
「何かあったら電話をよこしてくれ。まあほんの一週間ほどだ。こちら側がらみの事はまず起こらんだろうから」
「分かりました」
とりあえず書類をカバンの中にしまいこむ。
「それで、どちらまで?」
「ビッグベンまで」
「大英帝国の時計塔ですか?」
「嘘だ。あんな所誰が行くか。追われてる身だぞ。アメリカまでちょっとな」
アメリカ、あの自由の国の象徴、自由すぎてかなりまずい事になっているようだけど……。
話は終わりだとばかりに橙子さんは手を叩いた。
「じゃあ仕事に戻ろうか」
「橙子さん、あと一つ」
「何だ?」
いつもの調子で述べてくる橙子さん。そんな彼女に僕は真顔でこう言った。
「おみやげよろしくお願いしますね」
僕は笑みを浮かべてそう言った筈だったのに、橙子さんの顔は何故か引きつっていた。
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「ふう……」
アーネンエルベ。あまり天気が晴れやかでないせいか、店内は比較的すいていた。なぜそうしているのかは分からないが、店内は薄暗い。だから天気によって人の出入りが左右されやすい。
僕は橙子さんが出張に行ってしまったため、仕事は家で行なっていた。家でもできるように橙子さんがしてくれたのか、それとも自分がいない時にあの事務所に誰も入れたくないのか。それは分からないけど、どちらにしても事務所には入れなかった。
調べごとが一区切りついたのでここに来たけど、肝心の待ち合わせ相手が来ない。……まあ、待ち合わせまであと30分もあるんだから来る方がおかしいけれども。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
トレイを持ったウェイトレスが聞いてきたし、このまま水で時間を潰すのも何だし、とりあえず注文はとるべきだろう。
「あ、じゃあ紅茶を一つ」
「かしこまりました」
彼女はうやうやしく一礼して奥の方へと進んでいった。
「さて……」
三十分も紅茶ですごす事は出来ないし、まだ読み途中だった本を取り出す。
しばらくしてだろうか、それともほんの少しだろうか、人の出入りが激しくなってくる。外を良く見るといつの間にか天気が晴れになっていた。そう言えば天気予報で「今日はとても変わりやすく、所により雨、所により晴れになるでしょう」って曖昧な言い方してたっけ。
次第に多くなっていく人の数。いつの間にかテーブルが埋まっていく。
「あの、お客様」
「え?」
声をかけられたのでそちらの方を見ると、先ほどのウェイトレスが申し訳なさそうな顔をしてこちらを見ていた。
「申し訳ありません。あい席にしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「でも僕は待ち合わせを……」
「それは存じておりますが……」
周りを見渡す。うん、確かに今の僕のテーブル以外は埋まってしまっている。僕のテーブルは4人がけだ。時計を見ても、あと二十分前後はある。それにここでのんびりとするわけでもないし……。
「分かりました。かまいませんよ」
「本当に申し訳ございませんでした」
深くお辞儀をし、ウェイトレスは客を案内してくる。
僕の真正面に座ったのは身長が百八十〜百九十センチで細身、黒スーツに黒ネクタイでかためた男性だった。腰まで伸びたくせのない黒長髪、ある程度整った顔、だいたい20代後半だろうか。煙草をくわえて落ち着いた印象を持たせるこの人物、どこかで見たことがあるような……。
「おくつろぎのところ私ごときのために手間をかけさせてしまって申し訳御座いません」
男性は僕にそう言って頭を下げたので、僕もどうもと言って頭を下げた。親切な対応をされるとこちらも親切になるのは何でだろうか?
ふと、彼の顔を見て気になる。やっぱりどこかで見たような…。
「あの、どこかでお会いしましたか?」
僕は思い切って聞いてみる事にした。男性は微笑を浮かべて煙草を灰皿に押し付ける。
「ああ、テレビにたまに出ますから日本でも私を知っている人は多いでしょうね。」
「え?」
テレビで?
僕は記憶の中を探ってみて、比較的簡単に答えに辿り着いた。
「あ、昨日テレビに出ていた……」
「あたりです。ミハエル・フォン・シュレーゲル。称号メイガス、職業手品師ですよ」
そう、テレビで出ていた彼が今目の前にいた。
つづく