/9日目
朝、感動的な出来事があって、魔術が成功した。
だけどそのせいで大魔術一回ほどの魔力を消費、この燃費のなさをどうにかしない限り先に進めそうにないのは残念だ。
だけどすがすがしい朝を迎える事ができたのなら、俺にはやるべき事がある。
そう、それは……。
「今日も俺が朝食を作らせてもらうよ葵……」
「残念でしたー。もう既に作り始めちゃってますよ」
ぐあ、作戦失敗。
今日もまた葵を出し抜いて朝食を作る事はできなかった。
台所に行ったところで出会ったのは既に朝食の準備を始めている葵の姿だった。
にこやかにこちらの方に笑いかけてきます。
割烹着ではなくエプロンを身に着けているのは俺の影響なのか?
「……おかしい。昨日よりも若干遅い程度のはずなのに……」
「その昨日でいささか遅い事が分かっちゃったんで早めにきちゃいました」
にこやかに笑ってくれる葵。
思わずそのしぐさにどきっとしてしまうけれど、それに騙されてはいけない。
「だとしたら葵、やっぱり朝日が昇る前に起きてるんじゃあ……」
「いえ、わたしの一日は朝日が昇る頃から始まって、日の入りちょっと後には終わりますから。ですからほんの少し早めに起きた程度なんですよ」
やめてくれ。ただでさえ夜中に歩き回ったり魔術の鍛錬をつんでいるって言うのに、これ以上早く起きるなんてできない。
魔術は精神面が一番大切なんだから。
「……だとしたら俺もう一生朝食作れないとか?」
「いえ、まだ洋食はかないませんから、それはいつか追い抜きたいですね」
「やめてくれ本当に」
ただでさえ向こうに行っていたから洋食は葵より一日の長があるけれど、和食は完璧に負けているんだから。
まあ、時計塔では毎日朝夕作ってたからな。
「ですから、レンさんは居間で英さんとくつろいでいてくださいね」
彼女はおたまを持ちながらさわやかな笑顔を見せる。
だけれども、俺には「レンさんの出番はもう金輪際ありませんよ」といっているように見えるんだけど。
「……手伝うって選択肢は……」
「ありません」
そんな殺生な。きっぱり言わなくてもいいだろ。
だがこう言われてしまえば俺にはどうする事もできない。
仕方がない。
「……分かった。毎度の事ながら、ありがとうな」
俺も笑みを浮かべて台所から立ち去る。
明日こそ葵を出し抜いて朝食を作ろうと思いながら。
さて、どうしたものか。
午前中は英ねえとの稽古があるから、あの人と話すのはその時でいいだろう。
何も早朝まであの人と語らなくてもいいだろ。
さて、選択肢にあるのは一成さん、ディート、キャスター、アーチャーだな。
姐さんはもはや論外。まだ彼女は寝てるだろうし。でも師範代とも話す話題がないしな……。
魔術の相談をするならキャスターが一番いいだろう。せっかくわずかでもできるようになったのだから、少しでも伸ばして生きたい。
ディートと一緒にのんびりとした朝を迎えるのもいい。
だけど、俺は……。
「……」
物置から俺ははしごを持ち出した。
そして無言のまま俺はそれを屋根に立てかけ、そのまま上る。
重力操作をすれば飛んで屋根に上ることも出来るけど、見られたらいいわけのしようもない。
屋根は本来雨風を避けるためにつけられたものだから、人が上に立つ必要がない。
つまり、普通に考えればこの場にいるのは俺1人なわけだが……、
「おはようアーチャー」
「ん、おはようマスター」
案の定屋敷の屋根にはアーチャーが座っていた。
いや、多分いた事はいたんだろうけれど、俺に気づいて実体化したんだろう。
「見張りご苦労様」
「キャスターの使い魔だけだととっさに対処が取りづらいからな。こうするのはアーチャーとしては当然だろ」
そういわれてはおしまいなのだが……。
確かにキャスターはこの屋敷に結界を張っていて町全体に使い魔を張り巡らして動向をさぐっている。
だけど万が一の不測の事態が起きた場合、信じられるのは己の判断だ。
事アーチャーの眼は俺のへたな使い魔よりもはるかに信用できる。
その洞察力だけじゃなくて、純粋に視力に関しても。
弓を用いて遠距離攻撃を行うアーチャーだからこその視力だろう。
けど、それをさも当然のように言われると少しへこむ。
「ん。さしいれ」
とりあえず俺はアーチャーの隣に座り、片手で持っていたお盆をその場に置く。
「さすがに菓子までは持ち出せなかったから、これだけで勘弁してくれ」
「……ありがとうな」
アーチャーはお茶うけを手にとって口にまで運んでいく。
「お、これ中々よくいれてあるじゃないか」
「だろ? ここの屋敷にはお茶に厳しい人がいてね。その影響かな」
アーチャーはすごい、と言うより意外といった表情を見せてお茶を眺める。
ちなみにそのお茶に厳しいのは女性師範代でして、これもまた葵に技術追い抜かされましたよ。
はあ。
「……」
まったりとした時間が流れる。
空には雲もあり、快晴とは言いがたいけれど晴れには違いなかった。
しかも雲がよほど低い位置にあるのか、流れが速い気がする。
これを見ているだけで時間があっという間に流れそうだ。
風は穏やか。鳥たちが鳴いているし、目を凝らせば他の家でも朝の活動を始めている。
そこには日常がある。
人々が平和に過ごし、そして楽しく生きる、そんな生活が。
……まるで聖杯戦争真っ只中なのが嘘のようだ。
「昨日はご苦労だったな。前キャスターと戦ったんだろ?」
「ああ」
だけど、今俺はその日常にひたるわけにはいかない。
この日常をそのままにするために、俺は日常にいてはいけない。
だからこそ俺は時間をそこそこに、本題に切り出す事にした。
昨日は俺がダウンしたから聞けなかった事だ。午前は英ねえとの稽古にはげむなら、話すのは今ぐらいだろう。
すなわち、聖杯戦争のことを。
俺たちが話した事をかいつまんでまとめるとこんな感じだ。
前キャスターは雰囲気が湖の貴婦人、水の精霊に戻ったと言う事。
魔術の特性こそ同じだけど、属性も付加効果も全く違い、戦法も以前のとは全く異なっていた。
今までは経験と本能だけで動いていた感がしていた。
だけど、今の前キャスターは魔術師が本来持っている知性にあふれていた。
これは、死の存在には到底不可能な事だ。
使い魔を使いその戦いを見ていて、前キャスターは決してキャスターにひけを取らないと確信した。
実際に出会っていないから雰囲気までは分からないけれど、会えば間違いなくキャスターと同じものを感じるだろう。
前キャスターは死の属性がなくなり、かわりに魔術師としての大いなる叡智を取り戻した。
その使用する魔術の種類は増え、死よりも生に雰囲気が変わった。
水の魔術に関しては詠唱がたった一つの言葉で終わっていて、それだけにあらゆる意味を込めてるみたいだ。
その戦闘方法も魔術を使うタイミング、間の取り方。全てが以前とは比べ物にならない。
それは魔力と叡智に優れた、正に神代の魔術師だった。
過去に遠坂のマスターはキャスターと共にランサーとライダーを召喚していた。
前衛にはヴァルキュリー(その誰なのかまでは分からないけれど)、中衛にはチンギス・ハーン、そして後衛にサタナ。
いくらアーチャーが黄金の射手でも、いくらセイバーがあの黒づくめでも、チームでの戦いとなればこの3人は正に勝ちにいっていた証だ。
そのサタナは先日のランサーと双魔の強襲で倒されたはずなのに残っていた事。
そして次に変化して現れたサタナはこの間とは違い、完璧なサーヴァントとなっていた事。
なぜそうなったかは分からないけれど、事実がそうして先行している以上それを認めないわけにはいかなかった。
「……先は長そうだな」
まだ敵はセイバー、ランサー、前セイバー、アサシンといたのにまだ前キャスターが残っていた。
脱落はライダーとバーサーカーだけ。±2って事はようやくふりだしに戻った事になる。
「……」
ディートを救うために聖杯を得るにはまだ多くの敵が残されている。
誰が勝ってもおかしくないこの状況、より慎重にいかないとこっちが全滅するだろう。
俺はアーチャーの方を見る。
その横顔は朝日に照らされて神秘的だったけれど、執行者の助手を務めていた俺よりもはるかに修羅場を潜り抜けてきたような凄みが彼にはある。
時計塔にいてもこれほどの凄みが出せる人はほとんどいない。
多分、俺の先生でも。
それが俺のこの聖杯戦争でのパートナーだ。
俺自身はサーヴァントという表現はあまり好きじゃない。逆にサーヴァントから教わることの方が多い気がしてならない。
その彼と共に俺は勝ち抜かなきゃいけない。
アーチャーは未来の英雄だ。
過去には人類は戦争ばかりで英雄と言う存在は敵をなぎ倒してきた。
でも、技術が進歩していく以上英雄と呼ばれる存在は間違いなく少なくなっていくと思う。
それでも修羅場をくぐらなきゃいけない状況が未来に待っているんだとしたら……。
「なあアーチャー」
そう思ったら声を出さずにはいられなかった。
どうしたんだ?、と聞きつつこちらの方に振り向くアーチャー。
そう言えば俺は一ヶ月以上彼と共にいるって言うのに、
「アーチャーってどんな英雄だったんだ?」
彼の事を全く知らない。
俺の言葉にアーチャーの表情が若干曇った気がするけど、すぐに元に戻った。
「アーチャーの投影はキャスターの話だと固有結界が関係してるらしいけど、それにしても宝具を投影してその神秘を発揮する事はとんでもない事だと思う」
「そうみたいだな」
当然それが魔術師に知れ渡れば実験材料としてホルマリン漬けにされるかもしれない。
固有結界はそれほど上級の魔術で、ある意味魔法に最も近いとも言える。
だからこそ俺には疑問が浮かぶ。
固有結界は術者の心像世界をこの世界に現すものだ。
つまり言い換えればその作り上げた世界は術者そのものと言ってもいいぐらいだと思う。
だとしたら……、
「武器庫が心像世界って……どんな歩み方をしたらそんなふうに……」
「……」
過去の英雄と違って未来の英雄の彼については俺は全く分からない。
知る材料がアーチャー自身意外にないから。
この一ヶ月間彼の方から話してくれるかと思っていたけれど、結局言い出してはくれなかった。
だけど、俺は彼の事が知りたかった。
銃火器が主流になってくるだろう今後の戦争の中で剣と弓を、神秘がなくなっていく中で神秘を使う彼の事を。
だって、彼は触媒もない俺の召喚に応じてくれた英雄なのだから。
それに……俺が時折見るあの夢。
鮮明に思い出せるものは何一つないけれど、それでも心に残った存在がある。
青年の在り方、青い剣士、そして光の剣。
俺は正直意味不明な夢はよく見るけれど、あのような夢を見る材料は全くない。
俺にはあのような夢を見る事が出来ないと思う。
だとしたらあれはアーチャーの夢にならないだろうか?
未来のはずなのに過去にしか出会えないような剣士と共にいて、
自身もまた剣と弓を使って、
それでいてその技術は人を魅了する。
純粋に俺はアーチャーの事を知りたかった。
「……ニムエとかシグルズみたいに胸張って言えるような人生は送ってなかったぞ」
「それでもいいって。人生を全うした英雄なんて数少ないんだし、その英雄が成し遂げた事を未来の人が感じて何かを残せればそれでいいと思うけど」
腕を組んで軽くため息をもらすアーチャー。
そんなやれやれって顔をしても俺の考えは変わりません。
そう、いくらアーサー王の国が滅ぼうともその存在は敵であったサクソン人の創った英国で広く知られる事になった。
数多の英雄がその理想のために散っていっても、そのあり方がいずれ他の人に多大な影響を与える事になれば俺はそれでいいと思う。
まあ、英雄にとっては自身が成し遂げる未来にこそ意味があるのかもしれないし、伝わる物語は歪曲が多いけれど。
だからアーチャーがどんな人生を歩んでいたとしても俺はアーチャーへの思いも変わらないし、ましてや失望する事もない。
……いや、たいそうな御託は必要ない。
ただアーチャーの事が知りたいだけだ。
「……例えば10の人がいるとする」
「10の人?」
指を広げてこちらに見せるアーチャー。
唐突とも言うべき内容だけど何らかの関係があると思ったのでうなづく。
「その10人が危機にさらされてたとする。憐ならどうする?」
「それはもちろん助けるに決まってるだろ」
即答。迷いなんてない。
何かのために使わない力に何の意味があるんだ。
「なら……」
だけどそんな俺に対してアーチャーは今までに見せた事のないような表情を見せる。
いや、今まで誰からも見せられていないような表情だ。
「10全てを救う事が限りなく不可能に近い場合は?」
10全てを救う事が、不可能な場合?
「それは……誰かが必ず犠牲になる方法しか取れない、て事か?」
例えば人質をとった状態の敵を倒すために強行突入する場合。
味方の被害を考えるなら人質を切り捨てる事で敵を倒せる。迷っていては人質も味方も全滅するかもしれない。
より安全で確実な方法はあるかもしれないけれど、全てを確実に救える方法は絵空事だ。
「9を救って1を捨てる。そんな選択を取り続けたからこそ英雄になる。どう思う?」
「それは……」
理想は確かに10全てを救いたいけれど、全てがそううまくいくはずはない。
必ず何らかの代償を払わなきゃならない機会が絶対に訪れる。
たかが執行者の助手の1人に過ぎなかった俺でもそうした出来事に多く出くわしてきた。
非道な魔術師の実験材料にされた人々、死徒の化した魔術師の犠牲になった人々。
理想と現実の違い、全てを救うにはそれはあまりにかけ離れていて……。
より多くを救うために、より少数を殺す。
そこには一切の情はなく、数として考える事で自身の慟哭を殺す。
少数を殺した事で英雄とたたえられた人物は悪魔とののしられるかもしれない。
だけどその方法をとらないとより多くが死んで、悲しんで、苦しむ。
名声も汚名も全てかぶる。そうして英雄が成る。
「なら……アーチャーはやっぱりそうやって取捨選択をしてきたのか? 多くを救うために少数を切り捨てて……」
「……」
その返事が返ってくる事はなかった。
アーチャーはお茶請けと盆を手にとってそのまま俺に背を向けて屋根から下りようとしている。
そう、だよな……。
10全てを救う事の出来る手段を毎回選ぶ事ができるとしたら、それは正に神がかりだろう。
かつて救世主と呼ばれた存在でも全員を救うことはできなかった。いや、人類史の中でそれを達成した人はいないと思う。
今俺たちのそばにいる英雄と呼ばれた存在ですら……。
「それでも俺は誓ったんだ」
「え……?」
「10全てを救えるように道を取るって事を」
10全てを救う道を……。
「それがどれだけ不可能に近いかも分かってるし、俺ごときが今でもできるとは思わない。それでも俺はそうやって進んだんだ」
「アーチャー……」
それはあまりに理想論。でもそれをここまで真剣に言った人が今までいたのか?
俺の家族? いや、遠坂はあまりに魔術師しているからそういった考えはまず浮かばない。
時計塔の魔術師? いや、俺が知る限りどんなずれた魔術師だってそうまではしていない。
俺が出会った英雄? いや、キャスターもセイバーも犠牲の上に成り立つものがあるとは割り切っている。
誰もが一度は思って、誰もが途中であきらめる。そんな絶対的なもの。
それを彼はずっと進んでいたって言うのか?
「でも理想と現実は……」
「確かにギャップがありすぎる事だろうな。ああ、そんな理想を抱いた自分に後悔した時すらあったかもしれないしな」
彼は振り返らない。
わずかに顔がこちらに向いているだけで、振り返ろうとしていない。
誰もが幸せな世界、それを理想として走り続けたその背中が俺にはとても大きく見える。
俺には彼を追い続ける事はできない。俺には全てを救うなんて手段が取れないことは嫌と言うほど思い知らされた。
それでも俺は、できる限りの事をしたい。
「何のためにそこまでするんだ?」
でも、そこまで頑なな人生を送るには理由があるはずだ。
最愛の人の願いとか、信じられる祖国のようなものとか、己の全てをかける存在が動機となっていたのかもしれない。
アーチャーにそんな人生を歩ませたもの、それが俺は知りたい。
「……みんなの笑顔が見たいとか、ある人の願いとか色々あるけれど、一言で表すなら……」
そうしてアーチャーは屋根から下りてゆく。
はしごは使わずにそのまま飛び降りるように。
そして、その前にこう言って。
「俺の信じる正義のために」
「……」
そんな本当に一瞬のやり取り。
だけどその事を何度も何度も俺は思い返す。
「理想、か……」
そのまま俺は仰向けになって空を眺める。
ただひたむきに自分の信じた理想に向かって進んでいった。
それがどんなに不可能に近い事だと分かっていてもなお。
「真実を受け止め、かけがえのない人をこれ以上悲しませない、この俺に自身に代えても救いたいからだ」
英ねえとの稽古の時、俺はこう答えた。
もちろん俺自身がいなくなる手段を使って悲しませてしまったら身も蓋もない。
現実にはそんな手段をとらざるをえない時がやってくる場合だってある事も考えて言ったつもりだ。
突き進むとは言った。今でもそれを心の底から思う。
でも俺にそれを達成できるのか?
Fate/the midnight saga(仮)
第31話
/
「じゃあいっただっきまーす」
姐さんの言葉で食事が始まった。
毎日の事とは言え、姐さんが真っ先に食事に手をつける事に違いは全くない。
その進め具合は人によってばらばらだけど個性がはっきりと出てると思う。
まず師範。あくまで咀嚼を多くして少食。つまり量はあまり食べず、ゆっくりと食べる。
姐さん。もはや胃が3つはあるんじゃないかと錯覚させるほど食べる。普通の台所事情では彼女を養いきれまい。
師範代たち。大食いの人は意外と少なく、1日2食にしているせいで量がやや多い程度だ。
ディート。はっきり言うと師範よりも少なく食べる。行儀を言うなら最も洗練されている。
キャスターことニムエ。味わうようにして食べるので遅いけれど量は並。むしろ体格からすると多いかも。
そして……。
英ねえ。最も意外なのはこの人が姐さん並に食べる事だ。
一見すると姐さんの方が速度が速いように見えるけれど、淡々としたペースの中に恐ろしいまでの速さがあったりする。
と言うかもしかしたら姐さんと英ねえだけで全員の半分は食されているかもしれない。
葵。彼女は意外とよく食べる。多分俺と同じぐらいに。
意外なのは士郎で、彼は意外と食べない。それはサーヴァントに食事は不要だけれども、量はディートよりも少ない。
……これだけでも十分に各々の性格が現れているのが面白い。
「レン、何笑ってるのさ」
「え?」
不意に問うキャスターの一言に思わず動揺する。
しまった。どうやら無意識のうちに表情が緩んでたのかもしれない。
「すまない。食事中に行儀悪かったな」
ほほえましいと言えるそんな状況を見て、笑みが自然とこぼれてきてもおかしくない。
どんな非現実的な事が怒っていてもこれはまだそのままだと思うと、とても嬉しかった。
だというのに、
「いかがわしい事でも考えてたとか?」
「ば……っ!」
キャスターが真っ黒なにやけ顔でそんな事を言ってきました。
「はあ、憐も男なのねー。そのうち遊廓とか岡場所とか行くようになるのよ」
深いため息をもらしてその事を真っ向から肯定する姐さん。
少しは俺のことを信用して疑ってくれませんか?
「ゆ……遊廓って……そんなはずないだろ!」
「分からないわよ。そんな誠実な事言ってたこいつらは常連だし」
と言いつつ親指で師範代たちの方をさす。
当然いきなり話題を振られて吹き出しそうになる師範代たち。
「さっ沙耶さん! 何の証拠があってそんな事を……!」
「あら、もしかして私の情報網を見くびってるー?」
しどろもどろで弁明を開始する師範代たちだったが、流し目で笑みを浮かべる姐さんに退く。
ああ、もうこれは詰みってやつだな。師範代たちに勝ち目は全くない。
はっきり言おう。この街の情報網にかけては沙耶さんの右に出るものはいない。
何しろ異常なまでに知り合いが多い。と言うかこの街で知り合いじゃない人なんて誰一人いないと言っても良いほど。
それはこの地の藩主とて例外じゃなかった辺り凄いと言えば凄い。
もちろんそれは裏の世界(と言っても魔術師と言う面からするならまだ表だけど)もその内。
この街には遊廓は当然ない。岡場所は情けないと言うべきか当然と言うべきか存在する。
多分岡場所の人たちとも知り合っていただろうから、そんな情報も入ってくるんじゃないかなーとか。
ちなみに俺はそんなわけで10年以上前に瑪瑙たちといたずらしたら見事に見つかってしまったわけでして。
まあ、さすがに聖杯戦争の情報は入ってこないだろうけど。
「そうなのか。それだけの事を出来る余裕があるという事は稽古を更につむ事もできるな」
『ええっ?』
納得するような師範の言葉に一斉に引きつる師範代方。
あらら、それは気の毒に。英ねえとの稽古をつんでる俺にはあまり関係のない事ではあるから、まあいいか。
「そうだろう? 戦争も刀を使うことのなくなった今、武道とは己との戦いに他ならない。と俺は思うぞ」
「でも某はあそこでどうしても気になる娘が……」
なんて師範と師範代のやりとりを完全に意識から除外して食に没頭する事にしよう。
あまりに不毛だ。
「で、憐さん。もしかしてこれで終わりって思ってはいませんよね?」
でもその不毛から抜け出すことは出来ませんでした。
重い空気を纏った葵がこちらに話題をふったのだ。
とてつもなく重い。
「岡場所に行ったんですか、何かしたんですか?」
「行ってないし何もしてないって」
一見すると普通だけどその奥では漆黒の闇が渦巻いている。
少しでも道を誤れば黄泉への道まっしぐら、って思うぐらいの表情だ。
なせいか、俺はただそういいながら首をふるしかなかった。
「大体情報網が凄い姐さんが「そのうち」って言っているんだから、俺が行ってない事は姐さんが証明してくれてるだろ」
「あ、そう言われればそうですよね!」
表情を輝かせて笑みを浮かべる葵。
誤解が解けた喜びよりも俺ってそんなに信用ないのかーとがっかりくるぞ。
まあ、興味がなかったと言えば嘘にはなるけど。
何しろここに住んでる以上、師範代たちからの誘いがうんざりするほど来る。
それをしなかったのは向こうでの淑女を敬う文化に触れたからでもあるけど、英ねえと姐さんが大きな抑止力になっていた事を否定しない。
まあ、金銭的な余裕もなかったが。
「岡場所って……確かエドバクフってやつが許可してない女性による接客をする所よね。あそこにある」
明らかにこの国の人間には見えないキャスターから岡場所についての説明がされた事に沙耶さんが意外との表情を見せる。
聖杯がこの時代の情報を教えてくれているんだろうけど、遊廓とか岡場所の情報までくれるって思うと若干考え物だ。
とにかくあそことはこの街にある岡場所の事をさしているんだろう。
川を隔てた、向こう側にあったはずだ。
「ああ。そのはずだぞ」
場所だけは当然知ってる。街の男は少ない賃金をつぎ込んでいるし、な。
葵の茶店でもたまにどの女がいいだのって話題がのぼるから叩きのめしたりもする。
そんな話題にキャスターは茶々を入れるのかと思ったら、
「……!」
酷く驚いた表情になり、
「そう……」
ディートに何かしらをささやく。
そのディートもまたそれを聞いて表情がこわばった。
その後も2人で何らかの話をするけれど、口元まで隠していて何をしゃべっているのか分からない。
俺の読唇術はあまり見栄をはれるほどの出来ではないけど、こっちにはアーチャーがいる。
そのアーチャーにも隠したい事を話し合っているとしたら、この街の岡場所には一体何が……?
……気になる。
あの調子だとキャスターもディートも多分話してくれないだろう。
だとしたら自分で岡場所に行ってみるしかないのか……? はあ。
これでまたいらない誤解を招く。
「憐さん、岡場所には絶対に行かないでくださいね」
葵はこちらに身体と顔を寄せつつ真顔でそんな事を言ってくる。
まるで俺の心を見透かしたかのように。
顔と顔が近い。
「あ、ああ」
でも鼓動が高鳴るとかではなく冷や汗が流れる状況しか生まれないのがとても残念だ。
「絶対に行かないでくださいね。約束ですよ」
絶対に行かない。約束。
確かに本来の目的として岡場所や遊廓に行く事はないと思う。
でも、別の目的で行く事は十分に考えられる事だから約束はできない。
葵はそうは捕らえてくれないんだろうけど。
例えばアサシン組がそっちの方に逃げていたら追撃する必要がある。
葵の約束だからって見逃したらその葵に危害が加わるかもしれないんだ。
その場合、葵の約束を破る事を前提にするよりもあらかじめしない方がましだ。
だから、
「岡場所は使わない。遊廓も使わない。約束する」
使わない事を約束する。行く事は約束できない。
だからあえて使わない事を強調するように俺は述べた。
それでも葵は納得してくれたのか、安堵の表情を見せる。
よかった。とりあえずこれで俺の潔白は証明されたようだ。
岡場所なんて今の俺に入っている余裕なんて全くない。
聖杯戦争、これを無事に終わらせる事が最優先だ。
マキリ、アインツベルン、双魔。
この3つの強力な勢力を崩さない限り俺はディートを救えない。
助っ人になるかもしれなかったライダー組と第3勢力だったバーサーカー組はリタイアしていて、状況はより悪化しているかもしれない。
双魔やクリスたちがどんなふうに動くか、これにかかっていると思う。
あいつらが手を組む事はないと思う。ならこの2人が再びマキリを単独で強襲する事があるだろうか?
最悪、俺たちだけで3体のサーヴァントを相手する事に……、
「れ……憐さん!」
「へ?」
突然思考の最中から現実に引き戻された俺は間の抜けた声を発してしまう。
戸惑いながらも強い口調な葵の言葉は妙に俺に響く。
「ど……どうしたんだ、改まって」
「え、と……そのぉ……」
顔を朱色に染めてうつむきながら視線をそらす。
いや、もう耳まで真っ赤だ。熱があるんじゃないかと錯覚させるほどに。
こ、この反応って、まさか、か?
いや、落ち着け。俺相手に正に撫子の言葉が似合う葵がそんな態度を見せるか?
少しでも油断してると俺の方が葵に対してそんな態度をとりそうだって言うのに。
いや、じゃあ何で?
そんなふうに堂々巡りをする俺の思考は、
「きょ、今日一日付き合ってくれませんか!?」
その言葉で完全に停止した。
……。
……。
「ちょっとレン、正気に戻りなさいよ」
「はっ!」
それからどれほど時間がたったのか分からないけれど、キャスターの言葉で我に返る。
にぎやかだった食卓の風景は一変し、静寂につつまれている。
皆俺と葵に視線が移っていた。
「あ、えっと、その……」
でもまだ俺の頭は混乱しているようで定まらない。
大八車で容赦なく引っ張りまわされているとか、様々な比喩が浮かぶけどどれもが不適切。
落ち着け俺。
街の人にも人気のある葵がわざわざ俺に付き合ってくれと言ったからには何らかの理由があるはずだ。
荷物運びとか、もしかしたら実家の大掃除に付き合ってくれって言ってるのかもしれない。
……と情けない俺は逃げてみる。
落ち着け俺。
ここで選択を誤ったら葵の心を踏みにじる事になるかもしれないし、俺が恥をかくことになるかもしれない。
葵が何を考えてそういった発言をしたのか、その真意を確かめたいから。
ならまずは無難に俺の日程を言ってみることにする。
「正午を過ぎてからじゃだめか? 午前中は英ねえとの稽古が……」
「英さんには許可はもらいました。今日1日私と付き合ってもいいそうです」
へ?
英ねえがそれに許可を?
俺は思わず英ねえの方に顔を向けた。
彼女は相変わらず無言で食を進めていた。一見普通のペースに見えてその実速い。
と、今はそんな事関係ない。
「英ねえ、屋敷の手伝いで遅れても嵐が来ても通用しなかった時すらあったのに何でまた……」
「たまには2人で静かな1日でも送れ。ワタシはアオイの言葉の強さに同意した」
ご飯を口に書き込みながら、でも上品さは失わずにそう言ってくれる剣の師匠。
だから腹八分目って言葉を知ってくれ。姐さんともども。
2人で、静かな。これで手伝いの類でも俺以外の皆と一緒でもなくなった。
じゃあやっぱり葵が言っている事が意味するのは……、
いや、もしかしたら俺の考えすぎじゃないの?
真剣に考えすぎて玉砕してるかもしれない。
ここは何気ない言葉で更に情報を聞き出すしかない。
「分かった。それなら付き合うよ」
「そうですか!」
葵は今までに見せた事がないほどの輝かしいほどの笑みを浮かべた。
それだけで思わず鼓動が早まる。
「そうでしたらすみませんがディートさん、片付けの方よろしくお願いしますね!」
「え? かまいませんが、貴女は?」
「準備です」
自分のご膳だけを片付けて彼女はそのまま駆け足にも近い速度で出て行った。
食器の片付けや洗いなどは食事を作った人が主にやり、手のあいている人が手伝う事になっている。
今日食事を作ったのが葵だったんだから、葵が洗わないとおかしい。
あー、つまり、やっぱそうなるのか?
思わず頭を抱える俺。
俺に対してあそこまではりきる理由がいまいち理解できないけれど、やっぱりこれはあれなのか?
『お付き合い』そのままの意味をするって事なのか?
今にも蒸発するかと思うぐらいに俺の顔も赤くなってるのが分かる。
彼女はこの街にいる誰よりも女性らしさを感じさせると言っても過言ではないと俺は思う。少しでも気が緩めば街の人みたいに魅了されるほどに。
それでいてこの展開。よほどの朴念仁でない限りこれで期待しない方がおかしいってもんだ。
だがこれは本当に『お付き合い』なのか?
もしかしたら先祖の墓参りとか真剣なものかもしれない。
それで浮かれてたら俺は完全な道化だ。
……いかなる場合も余裕を持って優雅たれ。
祖母が俺に言ってくれた数少ない魔術師としても通用し、俺の一番好きな言葉だ。
こんな場合に思い浮かぶ俺は果てしなく愚かだけど、この言葉を思い浮かべない限り俺は混乱から逃れられそうにない。
「……よし」
あらゆる場合を想定して、どれもを最高の条件で満たすものにすべきだろう。
それが俺が葵に対して出来る最高の礼儀だと信じて。
だとしたら準備は早い方がいいな。
葵は皿洗いをディートに押し付けてまで準備に入った。
なら俺もすぐに準備を始めた方が良さそうだ。
「悪いディート、片付けよろしく」
「……分かりました。ではそのようにさせていただきます」
ディートは不必要なほどの丁寧さで述べ、これまた丁寧すぎる頭の下げ方をする。
いつものディートよりよそよそしく感じたのは気のせいだと思いたい。
「……っ!」
数十分後、俺は葵を目の当たりにしてただ呆然とするしかなかった。
場所はもちろん百目木邸の門前。そこで俺と葵は互いに互いを見ている常態のまま何も口に出来なかった。
簡単に言ってしまえば、この街を歩けば男全員を虜にしてしまうほどの魅力がそこにはあった。
その肌は桜色に染まり、化粧と相成って元からある美しさを際立たせる。
その髪はまるで水源近くの小川のようにみずみずしく流れている。
その指はまるで国家お抱えの芸術家が創りあげたように繊細で、だが暖かく。
その着物は明らかに普段使っている着物より上等な布を用いている鮮やかなもの。
その表情は俺の心を完膚なきまでに溶かしてゆく。
どんな魅了の魔術だろうとここまでのものは絶対に出せまい。
「憐さん、あの……そんなに私の格好はおかしかったですか?」
はにかむように彼女は言ってくる。
いつも聞いている声でも極上の旋律を奏でているようで、更に俺をどうにかしていく気がする。
「い、いや! そっそんな事はない!」
かなりあせりながら弁明。手を左右に振って首を振る。
一気に覚醒していく頭で何とか言おうとするけど何もいい考えが思いつかない。
困った。これだと葵にまた誤解を与える。
「その……、すごくいい。一目見ただけで見惚れた」
普段意識しないようにしてる心構えがコンマ一秒も満たさないで壊れるほどに。
だからただ呆然と彼女を眺めるしかなかった。
それしか許されないかのように。
「そう言ってくださる憐さんも紳士のようですよ」
くすっと笑いながら葵もそう言ってくれる。
確かに俺が見惚れていた時間と同じぐらい彼女もただ俺の方を見つめていた。
俺が着ているのはいつも来ている胴衣でも袴でもない。
ロンドンをそのまま歩いても見劣りしない、上流階級が着る紳士服だ。
現在時点で英国はまだ階級社会が根強く、世界は上流階級とそれ以外に別れていたと言っても過言ではなかった。
当然極東の田舎出身の俺にそんな世界は関係ない……と思っていたら先生が見事に紳士とは、社交界とは、エトセトラについて長く講義してくれました。
更に俺のあくゆ……もとい、学友に魔術の名門家系出の人物がいて、貴族なものだからそういった事への知識を増やさなきゃいけなかったりする。
服のサイズは将来成長する事を見越して大人用。色が赤なのは学友が青のドレスを着ていたのに対抗したわけではなく、純粋に俺が好きだからだ。
と言うわけで、多分日本人の中では一番着こなしているかもしれない、なんて莫迦な考えも思い浮かぶ。
万が一葵の付き合いが大した事ない用事なら「向こうではこれが普通なんだよ」で笑い話で済ませられる。
逆に俺の考えどおりならそれこそこの服はふさわしいと思う。
どうやら今回は後者だったようだ。
「ま、まあ……そうかもな」
本当ならもっと言いたいことが歩けど今はそれが精一杯です。
ごめんよ葵。
「そ、それで葵。今日はどこに行くんだ?」
ごまかすように話題を変える。
昔からそうだけど俺ってこういう事はテンで駄目だよなぁ。
「もちろんそれは気の向くままに、ですよ」
絵にもないような絶世の笑みを浮かべる葵。
気の向くままに、か。
予定なんか一切ない。贅沢な時間の使い方。
それを葵と俺は過ごす事になるのか。
「さあ、今日一日はゆっくりとして楽しみましょうね」
「ああ、そうだな」
だけどいつまでも動揺したままじゃいられない。
男尊女卑なこの国とは全く違う文化で俺は人生で大切な期間を過ごした。
なら、俺はいつくしむ女性に付き添う……というよりエスコートする、って表現の方がいいかな。
「憐、葵の事泣かせちゃ駄目だからね」
と姐さんは言ってくれるけど満面の笑みで迎えてくれる。
他の師範代たちも同じで、意外にも英ねえや師範すら例外じゃなかった。
むしろ例外は士郎やディート、それからキャスターたちだった。
ディートには皿洗いを押し付けたからともかく、何で士郎やキャスターが……。
「あ」
そこで絶対に忘れてはいけない事を忘れていた事を思い出した。
本来なら絶対にあってはいけない大失態。というよりうっかり。
葵に見惚れてたおかげでその事すら頭からなくなっていた。
つまり、今は聖杯戦争中と言うこと。
昼間であっても強襲を受ける可能性もあるという事。
馬鹿、莫迦、ばか、バカ。
なんて間抜けなんだ。
あれだけ誓っておいてそんな事も忘れるだなんてどうかしてた。
こんな致命的なうっかりばっかしてたら命がいくつあっても足りない。後悔がいくつもやってくるだろう。
むしろ俺だけそうやって死ぬなら自業自得だ。
けど俺のせいで葵に何かあったらどうするって言うんだ。
(しろ……いや、アーチャー。霊体化して敵の襲撃に追跡して備えておいてくれないか)
(む……?)
突然の念話に若干表情を変えるアーチャーだったけど、黙って彼はうなづいてくれた。
(それともしそうなったら俺の方は後回しでいいから……)
(葵や他の人を助けろ、だろ? 考慮には入れておくけど実際にそうするかは状況しだいだからな)
それでもかまわない。今度は俺の方が黙ってうなづく。
これほどの振袖を着て薄化粧をしているのだから、葵にとってこれがどれほどのものを占めているのかはわからない。
でも俺はそんな葵を裏切ってでも葵を守りたかった。
すまん葵。俺への失望が代償ならやすいもんだ。
(まあ、もし襲撃がなかったらピーピング・トムで終わるけど)
(出歯亀か。その言葉にいい思い出なんて何一つないんだけどなぁ……)
その単語が何を意味するのかは分からないけど多分俺が行った事と同じなんだろうな。
「じゃあ、行こうか」
「はいっ。行きましょうか!」
そういうわけで俺と葵は百目木の屋敷をあとにした。
/interlude
「……」
英はただ憐と葵が去っていった方向に視線をやっていた。
その顔は娘を見送る母親のように慈愛に満ちていた。
「英、随分と嬉しそうだな」
「やはりそう見えます?」
そんな英に声をかけたのはいつものような表情の一成だった。
一成も英ほどではないが笑みを浮かべていた。
「ええ、彼らを見ていると自然と笑顔がほころんでしまう。あれこそが本来人の世のあるべきものですから」
「ああやって自分の思いがかない笑顔に満ちた世界、か。確かにそれが理想だよな」
しみじみと2人は語る。
周りにいる師範代や沙耶はそんな彼らの会話を聞いてはおらず、互いの思いにふけっていた。
「数十年もこの地にいて、私にとっては彼女は娘のような存在にまでなってました。
今でも思い出せますよ。アオイとの最初の出会いを」
「……ああ、そうだな。俺も憐との最初の出会いは忘れられないな」
2人は過去を懐かしむようにして語り合う。
月日が流れるのはとても早く、もう既に少年少女だった憐と葵はあれほどまでに成長した。
思い出すのは彼らが少年少女だった時代。今の彼らからは想像できないものだった。
「あんなに小さかった少女がもはや私以上に大きく育ちました。その心は病む事無く、あんなにも幸せそうな笑顔まで浮かべて……」
英はそっと自分の胸に手を当てる。
そして今葵が笑顔を見せてくれる事に心から感謝をする。
「幸せでした。家族を持つ事の素晴らしさはきっとこうだったのでしょうね。きっと……」
「英……」
一成は英に触れようとするが、その手を引っ込める。
一成は英をミサト以上に知ってはいないし、知る資格もない。だから今の英に触れることはできない。
触れられるとしたら……。
英は胸から手を放し、優しい声で、だが決意を込めて述べた。
「私は葵を幸せにしてやりたい。未来に絶望する事無く、喜びも悲しみも愛すべき人と分かち合える、そんな人生を送ってほしいのです」
「ああ、俺も憐には幸せを掴んでもらいたいな。過去にとらわれる事無く己の信じた道を己の全てをかけられる人と共に歩んでいけるような」
その一成の言葉に英はくすっと笑う。
その様子にむっとくるのは当然一成。
「なんだよ。俺なんか変な事言ったか?」
「いえ、現在門下生に厳格な態度を見せている貴方でも私には昔のアイシスたちのように接するのですね」
「そう言ってる英も俺に対してはミサトたちへみたいに丁寧語で話すじゃないか」
さすがに尊敬語や謙譲語は使わないがね、と付け加えながら互いに笑う。
「お2人とも随分と上機嫌ですね」
「師範にしては珍しい事もあるもんだな」
師範代たちはそうぼそぼそと話すが2人にとってはどうでもいい話だった。
「ですが私はやはり嬉しい。葵はああして何も隠す事無くレンと接している。自身を覆い隠して殻に閉じこもる事無く」
「英、それは……」
「私のように全てが裏切られる事なく」
英のその発言に一成は何も言えなかった。
彼女の顔には哀愁がただよい、笑みを暗くさせる。
「……この数十年でもまだあきらめてないのか?」
「ええ、あきらめていません。私は彼のように賢者ではありませんし、彼女のように使命を果たせたわけでもありませんから」
沈黙が流れる。
一成としては英の持っている考えは間違っていると思っているし、とめたかった。
だが一成が英を止める資格は既にない。あの時に既に逸してしまった。
「憐なら……あきらめさせるはずだ」
だから彼はそう述べる。
自身が何も出来ずとも、できるものを育てる事はできる。
いつか過ちを正す事の出来る者を。
「……すみませんが彼女が望んでいるのでそろそろ行かねば」
哀愁の表情のままで英は靴を履き、歩み始める。
英自身も迷っていた。
数十年前にこの地にやってくる以前からかなえようとしていたささやかな理想か、
数十年かけてこの地に築いたささやかな幸せか、
そのどちらをとるべきなのかを。
自分は正しかったのか、自分は間違っていたのか。
その答えは近いうちに出るはずだ。
自分の在り方を決定する全ての答えが……。
「カズナリ」
歩みを止め、振り向かずに彼女は語りかける。
その背中には既に哀愁など存在しなかった。
「私は……変われると思いますか?」
そして変わってもいいのか?
「変えられるさ。英の思いがある限り」
一成はそういい残して玄関を後にした。
「変えられる、ですか……」
英は天を仰いだ。
風景は祖国とはまるで違い、過去とも全く異なる。
だが空の様子はいついかなる時とて不変。雲の様子に違いはあってもかつての時を容易に思い出させる。
そして英は涙した。
「ですがその変化は私には許されない。あってはならないのですよカズナリ」
私に許されているのは無念と絶望だけなのですから。
最後にそうつぶやくと英の姿は消え去った。
interlude out
to the next stage……
見事にこれだけで1話となりました。詳しく書こうとするとどうしても長くなってしまい進行が遅れるのが欠点です。
ですが描写がおざなりだと後で自分が読んですら分からなくなる事態になるので、やはり長くしてしまいますねー。
ギャグ話だとさくっと書いて終わりなのですが……。
それでは次の舞台で。
できればFate/Zero2巻発売までに10日目まで進めたいものです。
2007年3月3日